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伊能忠敬『測量日記』

八月十九日


 朝は晴れ、午後は曇天で七っ前(午後4時前)より雨。五っ時(午前8時)頃に出立した。長崎町に逗留して測る。

 高木作右衛門(忠任。当時の長崎代官)が支配する長崎村と御奉行が支配する新大工町境。木戸の真ん中(新大工商店街の桜馬場側入り口)印より初める。惣一手で市中を測る。左は寺町通りへの追分け(九州銀行横)印を残す。 左横町は伊勢町。二股川(中島川がこの付近で二っに分かれているので、二股川と呼ばれた)の石橋(大手橋)を渡る六間(10.91m)ばかり。左は南馬町(現在は馬町)。右は北馬町(現在は馬町)印を残す。

 諏訪大明神へ打ち上がる。大華表(かひょう。鳥居のこと。ここは一の鳥居)の元。馬場(以前は流鏑馬がおこなわれていた)、諏訪宮と天満宮への追分けの印より天満宮へ打ち上がる。右に大悲庵(現在はない)。同じく猪ノ神(現在はない)。石華表(石の鳥居で以前は階段下にあったが道路拡張時に上へ移設された)桜門前で打ち止める。松ノ森天満宮という。祭礼は十一月二十五日、神主は伊奈岩見助(九代・伊奈石見介建彦)

 又、印から初めて、諏訪宮へ打ち上がり四辻。右が大村木場道(現在の西山町・木場町・長与町・多良見町伊木力への山道で、大村藩主が長崎へ出向く時に時津街道と並んで利用された)と左が炉粕町通りに印を残す。二ノ華表(二の鳥居)。随身門(長坂の上の門)前で打ち止める。長崎町の総鎮守諏訪大明神。御朱印は一万坪。神主は青木兵庫之助(八代・青木兵庫介永鷹)。祭礼は九月九日より十一日迄(おくんち)

 又、印より初める。右は北馬町、左は南馬町の四辻。右は北馬町横町、左横の町は大井手町。左右は勝山町。木戸がある。左横の町は今博多(測量日記では博田となっている)町。四辻。右、立山御役所通りへの追分けに印を残す。

 右横町は八百屋町。左横町は勝山横町。右に御代官の高木屋敷(高木作右衛門忠任。以前は末次家の屋敷。現在は桜町小学校)。左横町の桶屋町通りへの追分けに印を残す。

 木戸。左横町は紺屋町(現在は魚の町)。木戸。桜町。右横町は内中町(現在は桜町に含まれている)。左横町は引敷町(引地町)横町。左右は桜町横町。右に町年寄り高嶋作兵衛(永喜)屋敷(現在は市役所敷地内)。木戸。豊後町。四辻に印を残す。

 木戸。本興善町(現在は興善町)。左右は興善町の横町。左に行き当たりに毛利大膳太夫屋敷(豊前藩蔵屋敷)。木戸。四辻。堀町(現在は興善町と万才町に含まれている。)。左右の横町を堀町横町という。本博多町(現在は万才町)。四辻。左右の横町は博多町。本通りに印を残す。

 大村町
(現在は万才町)。左に町年寄の寺島四郎兵衛(茂紀。高嶋四郎兵衛の誤り。高嶋秋帆の父。現在の家庭簡易裁判所付近)。四辻。外浦町(現在は万才町)。左右の横町の左が大村横町、右は外浦横町。印を残す。

 左の西御番所(現在の長崎県庁)前に印を残す。

 右横の町は平戸町(現在は樺島町に含まれている)印を残す。

 椛島町(樺島町)。海辺の大波戸に出る。乗船場。沿海を測って繋げる時の為に、制札右の石垣角に印を残す。

 又、印より初めて椛島町。木戸。四辻。右は平戸町横町。左の海辺は中ノ波戸通り。の印を残す。

 右横町は椛島町の内、北側横町という。本五島町。四辻。右は五島町横町。真っ直ぐは本五島町。左へ曲がる。左は諫早屋敷。浦五島町。横へ三十九間四尺(72.12m)海辺へ出て、印を残す。 番所波戸という。

 左は深堀屋敷。右は筑前黒田美作屋敷。左は筑前屋敷。右は浦五島町横町。左は中ノ波戸横町。左は柳川屋敷。木戸。三辻。右は横町。舟津町への追分けに
印を残す。

 左は浦五島町。右は舟津町
(現在は五島町と恵美須町に分かれている)。右横町は舟津町裏通り。新橋(現在は暗渠となり橋はない。川の上は大黒市場)の左角杭に繋げて印を残す。

 新橋を渡り巾六間(10.91m)。左は大黒町。右は恵美須町。左右に横町あり。三辻。右横町は恵美須町横町。左は島原屋敷。左右は横町。又、左右共に大黒町。左は平戸屋敷。三辻にの印を残す。

 これより海辺へ打ち出す。右に佐嘉屋敷、左は平戸屋敷。海辺の平戸屋敷の石垣角に繋ぎ
印を残す。三十八間三尺五寸(70.15m)

 又、印より初める。左右は大黒町。左右に横町あり。左に佐賀屋敷。左に肥後屋敷。左右に横町あり。右横町は西中町(現在は中町)印を残す。

 時津街道入り口。長崎市中、大黒町の限り、御料所長崎村。
印を残して置く。

 又、
印より初め、西上町(現在は筑後町)。左に日蓮宗聖林山本蓮寺(この時の住職は十八代・日道)、御朱印一万十坪、本堂迄五十間(91m)ばかり。三辻(現在の長崎県教育文化会館横)に印を残す。

 下筑後町。左は真言宗聖無動寺
(この時の住職は十一代・慈海)。右横町を下筑後横町という。右の角は浄土宗法泉寺(看坊は輪譽)。左は臨済宗福済禅寺(この時の監寺は祖關)の門前、唐人の寺である。山門まで九間(16m)ばかり。左に真言宗躰姓寺(この時の住職は十二代・大亮)。左右は横町。木戸、四辻に印を残す。

 左は東上町
(現在は玉園町)。右は西上町。四辻。左は横町で東上町通り。印を残す。

 又、
印より初め下筑後町。上筑後町。左に臨済宗霊鷲庵(現在はない)。左に一向宗観善寺(住職は十代佛眼)。左に万寿山聖福禅寺(この時の住職は九代・竜門)。唐人の寺。山門迄十二間(22m)ばかり。左に普門庵(現在はない)。右に正上庵(現在はない)。左に禅宗碧光山永昌寺(この時の住職は十三代・越宗)。左に岩原屋敷(勘定方の屋敷)。十二、三間(約23m)引き込んでいる。八百屋町。石橋(現在は暗渠でわかりにくい)巾四間(7m)ばかり。左は立山御役所(現在は長崎歴史文化博物館)の石垣下。左横町は東中町(現在は上町)。右横町は八百屋町と勝山町との入会い。左に制札。左に御普請方役所。勝山道への追分けに印を残す。そして勝山町の印に繋げる。

 又、
印より初めて炉粕町。左に天台宗松岳山安善寺(現在は廃寺。長崎公園の中に含まれる。この時の住職は十二代・觀定)、御朱印はない。仁王門迄は一町(109m)ばかり引き込む。右横町は馬町横町。左は禅宗高林寺(現在は鳴滝1丁目へ移転。この時の住職は十七代・禪文)。右に彦山修験本覚寺(現在はない。興善院の住職が兼ねていた)。止宿。即ち炉粕町の禅宗大同庵。測所。左に荒神社(現在はない)。左に諏訪社の裏門木戸。諏訪境内二ノ華表。今朝の初めの印に繋げて終る。

 総測一里六町四十二間四尺五寸
(4,659.55m)。内、四町五十七間三尺(540.91m)は止宿迄。七っ時(午後4時)頃に宿へ帰る。この日大村老侯(前藩主の大村純鎮)より御使者の土屋刺史之祐を以て、先日(八月十日)暦理実測について御尋ねになられたので、即答申し上げたことへの御挨拶に御国の産物を下された(忠敬は長崎市の測量後、時津より彼杵へ船で渡り、俵坂を経て佐賀県へ向かう。九月十九日に彼杵の浜辺で大村純鎮へ約束した測量実測の講義をすることになる。長崎県では平戸松浦藩と島原藩が伊能測量に注目し、伊能図を注文し購入しているが、大村藩も注文したものの製作費用の金額が合わず、忠敬に断られていることが最近判明した)。同人の兄、土屋右衛門之允より礼状が来る。


背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日
新大工町境 イの地点 諏方大明神 一の大華表(鳥居)ハの地点
代官 高木屋敷

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