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伊能忠敬『測量日記』

九月十七日

 曇天。長崎に逗留して測る。六っ時後
(午前6時過ぎ)出立した。

 惣一手で測る。長崎市中、大黒町の限り。八月十九日に残した印から初めて時津街道を測る。長崎村字船津。長崎市中の飛地、西中ノ町。御料所浦上村山里。馬込郷の内、字西坂(26聖人殉教の地)

 (一部省略)

 字御船蔵。字町道。馬込郷、俗に言う馬込宿。八月二十五日に海辺より打ち上げて残したの印に繋げる七町五十間二尺五寸(855.30m)

 右に一町
(109m)ばかり引き込んだ所に松月庵(現在の銭座天満宮)がある。小川の石橋巾二間(3.6m)ばかり、右に一本松(『長崎古今集覧』には西坂口より馬込一本松迄七町四十二間(840m)とあるが、現在は無く不明。古写真に写っている木があるが?)の名高い大木がある。字新馬込(現在の銭座町)。里郷字花見坂(現在の坂本外人墓地裏付近か)。字山王宿。右に制札。右に山王宮。神主は恵妙、祭りは九月十八日、別当白岩山円福寺。字坂本。石橋(現在、川は暗渠になり橋はない)一間(1.8m)ばかり。字宿ノ坂(平野町への上り坂。現在は階段)。平の宿里郷(現在の平野町)。字左城(現在の平和町の坂付近)。字柳道、中ノ川大橋(現在の原の田橋)巾六間(10.91m)。中ノ郷字辻。字浄福。字塔ノ尾(現在の山里小学校付近)。家ノ川(現在の浦上川の中流域の名)巾二十三間(41.82m)。字家ノ郷長崎市家野町。左は西で川添川向にある。直ぐに大村領浦上村西(現在は西町)。字井ノ上。字中原。字城ノ越(現在の長崎大学付近)。大村領浦上北村。街道を打ち止め三十二町四十五間(3,572.7m)。街道総測一里四町三十五間二尺五寸(4,428.03m)。大村領で野陣で小休止する。

 それより御料所の浦上村中里へ引き返して、庄屋の高谷重十郎宅(浦上天主堂のある高台にあった)で中食。

 八っ時頃(午後2時頃)宿へ帰る。八っ半後(午後3時過ぎ)に我等(ワレ。忠敬)は西ノ御役所(現在の県庁の地。九月七日に新任の長崎奉行牧野大和守成傑が着任している。遠山左衛門尉景晋は十月十三日に長崎を離れる)へ行く。出立並びに長崎での日々の測量を届ける。馬場為八郎(蛮学稽古世話役・紅毛大通詞見習。シーボルト事件では有罪になっている)の忰の伝之助が暇乞いに来る(『長崎志続編』の文化9年の項に「正月馬場佐十郎が天文方高橋作左衛門の手附に命ぜらる」とある。文化十二年一月三日、忠敬は江戸で佐十郎と面会し、その後も付き合いがあったことが忠敬の日記に書かれている)

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背景の地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものです。
※国土地理院承認番号 平14総複、第253号 平成14年10月9日
西坂地蔵堂 (写真1) 馬込から見た西坂の丘 (写真2)
馬込の地蔵 (写真3) 左は聖徳寺へ、右は時津街道 (写真4)
聖徳寺 (写真5) 坂本外人墓地横の時津街道 (写真6)
山王神社 (写真7) 平野宿への宿ん坂 (写真8)
山里大橋 (写真9)

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