軍艦島の名前の由来

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写真《高浜海水浴場より端島を見る》  <写真は島の先輩より>
 第二竪坑櫓が見えます。昭和30年代でしょうか、40年代でしょうか。まだ、島に人が住んでいた頃の光景です。
 子どもの頃ですが、対岸の野母半島への遠足?・海水浴?の際に、ふと端島の方を見ると、煙突から黒い煙を吐き出して軍艦が航行しているのが見え、何でこんな所に軍艦がいるのかと驚いた覚えがあります。よく見ると端島で、軍艦の煙突の正体は65号棟横の大煙突でした。
 ちなみに、昭和41年からは汽缶の使用燃料が変更(石炭→重油)となり、この大煙突からは煙が出なくなりましたが、私の思いとしては、煙を出していた時の端島の姿が「全速前進中の軍艦」で、煙が出なくなった端島の姿は「沖に停泊中の軍艦」として見てきました。


 『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)のp173には、(『大阪朝日新聞』大正5年4月7日,第12,286号)の記載として、「全島只是れ一大岩層に固められ而も之を繞らす高さ三四丈の石垣を以てし正に海上の城郭たる観がある,若し夫れ沖合遙かに望まんか二本煙筒の巨艦,今や錨を抜いて何れへか航せんとするの威を示せるにも似てゐる,事実初見の人は往々にして之を偉大なる軍艦と見まがふさうである。」と記載されていて、軍艦島と名付けられる由縁が書かれています。


写真
《 高島炭坑 高島二子島及ビ端島 》  <所有絵葉書>
 端島に30号棟の姿はなく、遠くに見える下二子島と上二子島とは陸続きのようですが、高島本島と二子島の間は陸続きとはなっていないようですので、おそらくは、大正の初め頃の撮影ではないでしょうか?。

写真 左絵葉書からの部分拡大です。
 前出の『大阪朝日新聞』に記載された「二本煙筒の巨艦」の頃の姿かと思います。


写真《 高島炭坑(Takashima Colierry)  端島(Hashima) 》からの部分拡大
 30号棟が建てられてなく、大正初めの頃の撮影ではないかと思いますが如何でしょうか?。
 島の高台まで、隙間なく建てられた建物の姿が見えますが、私には、この頃には、既に、軍艦島としての偉容を放っていたのではないかと思っています。なお、島に住んでいた方々は軍艦島の名は使用することはなく、端島を使用していました。


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<2019年撮影>
 『大阪朝日新聞』(大正5年4月7日,第12,286号[九州版])の記事には、『高島炭砿史』にて記載されている「軍艦島と名付けられる由縁」の後に、「金刀比羅神社に祀れる海抜幾百尺なるべき端島の山頂に立ちて眸を沖合に放たんか、只左方に連山峨々たる野母半島の南端野母岬の海中に突出せるを望み見るのみで、南方一帯東支那海の渺茫として際もなく僅かに三ツ瀬てふ岩礁の波上に黒き影を漂はすのみ、一度海神怒りを発せんか此絶海の一孤島は忽ち山爲す波濤に脅かされ、三四丈の髙壁も物かは飛沫雲を突く大煙突にかゝりて白く其名残りを止むるに至るといふ」の記載があり、厳しい環境下にあることがお分かりいただけるかと思います。


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