2020年撮影(その1)

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真<2020年1月1日撮影>
 「その後の端島」シリーズ?も2004年から開始いたしまして、ついに2020年まで参りました。何時迄続けることが出来るか分かりませんが、可能な限り続けて参りたいと思います。
 以前は、端島が朽ちてなくなることを心配していたのですが、どうやら私の方が端島よりも早く朽ちてしまうことになるようです。
 護岸補修など、島の保存に携わっていらっしゃる皆様には心より御礼申し上げます。


写真<2020年1月1日撮影>
 外海側から撮影で、神殿背面の光景です。

写真<2020年1月1日撮影>
 神殿基礎の四本柱部分の拡大ですが、左端にある柱の痛みが特に激しいようです。


写真<2020年1月1日撮影>
 学校校舎の光景です。6階までの外壁は大丈夫?ですが、7階は完全に壊れています。


写真
<2020年1月1日撮影>  ※赤いラインを追加
 校舎部分を拡大してみました。経年でかなりの窓ガラスが割れていますが、残っている窓ガラスの場所に特徴があるようです。
 建物の上下で比較しますと、概ね、低い階ほどが残っている窓ガラスは少ないようで、2階ではほとんどが残っていませんが、6階では音楽室を除いた部分でかなりの枚数が残っています。
 また、建物の左右で比較しますと、写真左端の3スパン部分では各階通じてほとんど窓ガラスは残っていないようで、それ以外の箇所では、概ね、建物の右端に行くほど残っているように思います。大雑把ではありますが、建物左上の場所と右下の場所を結ぶ赤いラインを境として窓ガラスの残り方に違いがあるようで、外壁塗装の残り方についても特徴があるように思えますがいかがでしょうか?。
 なお、各階の窓ガラスの枠ですが、5階だけは縦に5枚しか並んでしませんが、他の階では6枚並んでいるようです。


写真<2020年1月1日撮影>
 病院の2・3階は各部屋の外壁が抜けてしまい、部屋の中が見えるようになっています。
 ちなみに、病院手前の護岸の中央部分には鉄の扉がありますが、閉山後の護岸修復時に設けられたもののようです。


写真<2020年1月1日撮影>
 端島裏海岸の全景です。


写真<2020年1月1日撮影>
 隔離病棟手前の護岸が一部新しくなっていますが、新しくなる前の光景はこちらです。


写真<2020年1月1日撮影>
 神社のお姿が印象的です。


写真<2020年1月1日撮影>
 


写真<2020年1月1日撮影>
 


写真<2020年1月1日撮影>
 公民館と31号棟の間ですが、50号棟(昭和館)は崩壊してしまっています。


写真<2020年1月1日撮影>
 31号棟左側の木材が散乱している場所は、23号棟(泉福寺)があった場所です。23号棟の上には木造住宅がたくさんありましたが、今では崩壊してしまい、現在ではこのような光景となっています。


写真<2020年1月1日撮影>
 8号棟、12号棟、23号棟近辺の拡大です。木材の散乱が目立ちますが、私には、それ以上に石積の見事さに興味を覚え、お城の石積のように感じています。


写真<2020年1月1日撮影>
 貯水槽とその下の部分周辺の拡大になりますが、その昔は、貯水槽の手前には6号棟と7号棟(職員倶楽部)がありました。ちなみに、写真下の白い部分は31号棟です。
 なお、こちらにも立派な石積と煉瓦の壁面がありますが、貯水槽の下の部分は中央が煉瓦の壁面で、両端は石積となっています。どのように使い分けられていたのでしょうか?。


写真<2020年1月1日撮影>
 大正5年完成の30号棟ですが、何時倒れてもおかしくない状態のように思います。
 なお、場所により損壊の程度にはかなりの違いがあるようで、便所左側(建物外海側)の住居内部にはかなりの木材が残っているようですが、便所右側(建物南部側)の住居内部には木材が残ってない箇所が多く、建物反対側の青空が見えています。
 下段に拡大写真を掲載いたしますのすので、ご確認をお願いいたします。


写真
<2020年1月1日撮影>
 便所左側(建物外海側)の住居部分の拡大です。私が見る限りですが床の崩落もないように思います。
写真
<2020年1月1日撮影>
 便所右側(建物南部側)の住居部分の拡大です。5階部分ですが、崩落してきた瓦礫が積み重なっています。


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>
 護岸には縦に亀裂が入っていますが、亀裂より左側は昭和31年の台風被災時に崩壊した護岸の復旧箇所だと思います。


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>
 昨年9月の台風被害箇所については現在のところ復旧がなされていませんが、もうすぐ復旧工事着手とのことで、島への上陸観光再開はもう暫くの辛抱のようです。
 しかし、昨年の正月も復旧工事の為、上陸観光ができませんでしたが、最近、台風の勢力が強くなっているのでしょうか?。台風被害を受けても、早急な復旧ができる方法・体制の確立を願ってやみません。


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>
 第四竪坑の付近と思います。写真上段には山道が写っていますが、山道の右端には祠?のお姿があります。


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>
 65号棟7階から56号棟1階に向かう連絡路の途中には、山道とを結ぶ階段がありましたが、2018年の1月ぐらいに崩壊していました。その後の光景です。

写真<2020年1月1日撮影>
 左写真の中央部分の拡大になりますが、階段は一部分を残して崩れ去っています。
 なお、階段左側の山肌には煉瓦が高く積まれていますが、その昔の落石防止のための設備だったのでしょうか?。


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>


写真<2020年1月1日撮影>
 端島ではなく、高島の光町・西浜町付近の光景ですが、端島出身者の中には懐かしい光景である方もいらっしゃるかと思いますので、掲載させていただきます。
 一番高いアパートですが、拙ホームページに掲載している「高島建物事情」の光町地区建物一覧を見ますと、その戸数からして昭和40年建設の光町アパート(112戸)と思いますが、よく長持ちをしていると思います。
 また、光町アパートの後ろにある数棟のアパートは西浜アパートだったと思いますが、町営だったためか「高島建物事情」には掲載がなされてなく、詳しい建設年は不明ですが、おそらく、一部の棟は端島閉山の時には建設されていたと思います。
 ちなみに、光町アパート手前の低いアパートは高島閉山後にできたアパートだったように思います。


写真<2020年1月1日撮影>
 端島を回る周遊船から見る、高島の光町・西浜町付近のアパート群の光景です。


写真<2020年1月1日撮影>
 こちらも端島ではなく、軍艦島周遊船から見る三菱重工業(株)長崎造船所香焼工場の光景です。私としては、この工場ができる前で、長崎半島と陸続きとなる前の香焼の時代から記憶にあります。


写真<2020年1月1日撮影>
 100万トンドックにあるクレーン三基の光景です。


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