石炭積込桟橋

<概 要>
 昭和6年(1931)、新積込桟橋の建設により5,000t級汽船直積みが可能(『高島炭砿史』p292)
 昭和24年末、選炭機を全面改修し、次いで、積込桟橋の更新等(『高島炭砿史』p345)
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 書籍等の裏付けはなく、あくまでも私案ではありますが、石炭積込桟橋の世代が分かればと思い、石炭積込桟橋に番号等を付し「石炭積込桟橋①」等の言葉を追加しています。つきましては、誤記等ございましたらご指摘をいただけましたら幸いです。
 なお、「石炭積込桟橋①」は明治初期に使用された「石炭積込桟橋」に割り当てていて、拙ページでは「石炭積込桟橋②」から開始しています。また、「石炭積込桟橋」は海上に突き出た構造物であるためか台風時に被害を受けやすく、私が知り得ているだけでも、明治38年明治41年大正3年(1度目)大正3年(2度目)(以上、<三菱社誌刊行会編纂、『三菱社誌』、(財)東京大学出版会>より)や昭和34年(<『”はしま" ◀閉山記念特集号▶』、記念アルバム”はしま"編集委員会>より)に桟橋流失の記録が残っていますが、同世代と思われる「石炭積込桟橋」は同じ番号のままで記載しています。


〔石炭積込桟橋③〕
〔石炭積込桟橋②〕

写真《高嶋炭坑ゑはかき 中(端嶋海岸)》
<昔の絵葉書より  所蔵: 九州大学 記録資料館>
写真《長崎端島炭坑》
<『華の長崎』長崎文献社刊(ブライアン・バークガフニ氏蔵)より許可を得て掲載>


 上段2枚の絵葉書ですが、島の表海岸を、左絵葉書では高島をバックにして、右絵葉書ではその逆方向となる高島側からの撮影となりますが、左絵葉書では中央に、右絵葉書では左端に、2カ所の石炭積込桟橋が写っていますが、『高島礦業所概要[大正十五年十月]』の運炭状況の項にも、端島船積桟橋として、以下の2基の情報が書かれています。
  (塊炭)  延長六十尺  巾十二尺  一基
  (粉炭)  延長七五尺  巾十二尺  一基
 また、左絵葉書では2カ所の石炭積込桟橋の先に、右絵葉書では2カ所の石炭積込桟橋の手前で、空に向かって斜めに伸びる構造物が見えていますが当時のクレーンではないかと思っています。

 なお、貯炭場に相当する部分ですが、左の絵葉書では島内の地表面よりも上の部分まで護岸が延びていますが、右側の絵葉書では島内の地表面までの高さまでしか護岸はないようです。ちなみに、<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34)>を確認しますと、貯炭場部分には石やコンクリートのようなものでできた塀や垣根のような物はなく、左右の絵葉書では石炭積込桟橋の基礎部分や貯炭場内の様子にも違いがあるようで、私としましては、右側の絵葉書の方が古いのではないかと思っています。


〔石炭積込桟橋③〕

写真《 (長崎港外)端島表海岸 Omote Sea-shore Hajima, Nagasaki. 》
<所有絵葉書>
 上段二枚の絵葉書同様に石炭積込桟橋が2カ所にある絵葉書です。下の方にある積込桟橋は上部のみしか写っていませんが、上の方にある積込桟橋は全体像が写っていて、桟橋の基礎の特徴から、絵葉書の撮影時期は上段左側の絵葉書の方に近いと思われます。
 また、絵葉書の下段右側には艀が二艘積み重なって陸の上にありますので、付近には艀を海へ上げ下げするクレーンが設置されていることになるかと思いますが、閉山時に15tクレーンがあったこの場所には遅くとも大正の終わり頃にはクレーンが設置されていたようです。
 ちなみに、この絵葉書には大正11年完成の上陸桟橋(クレーン式)の巻上設備らしきものがあり、風景印の日付は「大正13年6月16日」と思われることを考え合わせると、この絵葉書の光景は大正11~13年頃の光景ではないかと思っています。


写真《 (長崎港外)端島表海岸 Omote Sea-shore Hajima, Nagasaki. 》の部分拡大
 上段絵葉書の中段右側部分の拡大です。奥の方の桟橋上には炭車らしき姿が見えます。また、その手前の三角屋根の建物の右側にも積込桟橋が見えていますが、2カ所の桟橋とも桟橋上の線路は単線ではなく複線のように思われますがいかがでしょうか?。


〔石炭積込桟橋④〕

写真 昭和初期(遅くとも5年頃)の撮影と思われる昔の絵葉書《三菱高島礦業所 端島坑東海岸》から右側部分の拡大です。写真右端の護岸の外側には、積込桟橋らしきものが写っていますが、上段の積込桟橋と下段にある積込桟橋の間の時期に設けられていたようで、開始の時期は不明ですが、昭和一桁の中程ぐらいまではこの積込桟橋ではなかったかと思っています。


〔石炭積込桟橋⑤〕

写真
<写真は島の先輩より>
 桟橋の形を考えると、昭和6年頃設置の積込桟橋ではないかと思います。
写真
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 昭和10年前後頃に使用された積込桟橋のようです。積込桟橋の基礎ですが、閉山時には二基ありましたが、この時点では一基しかありません。(一番手前の基礎は除く)

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 上段写真と同じ積込桟橋と思います。桟橋の基礎が四角い形をしております。

写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 写真から積込桟橋部分を拡大してみました。積込桟橋は、上2枚の写真に写る積込桟橋と同じものと思いますが、積込桟橋の南側海上部分に見える某かの構造物は上2枚の写真では見えておりません。もしかしたら、その構造物は先代の積込桟橋ではないかと思いますが如何でしょうか?。


写真
《長崎港外端島全景》  <所有絵葉書>
 まだ、第三竪坑櫓が残っていますが、第二立坑櫓は二代目の櫓に変わっていますので、昭和の一桁後半から昭和11年の間ぐらいで撮影された絵葉書ではないかと思います。

写真《長崎港外端島全景》の部分拡大
 閉山の頃とは違う形の積込桟橋です。


〔石炭積込桟橋⑥〕

写真
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 工事中のような気がしますが、私としては閉山の頃に使用されていた石炭積込桟橋と同じ型式の石炭積込桟橋ではないかと思っています。

写真《石炭積込桟橋取付工事》
  <写真は島の先輩より>

 足場が逆三角形(▽)の形を桟橋です。上段写真の基礎が四角い桟橋の後継桟橋となるようです。

写真<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 桟橋の基礎が▽形の石炭積込桟橋が、出来たてホヤホヤの頃の撮影かと思いますがいかがでしょうか?。
 なお、<『婦人之友』、第三十巻 第十號、婦人之友社、昭和11年10月1日發行>に掲載されている 「全島鳥瞰圖」 の石炭積込桟橋は左写真の形式と思われる石炭積込桟橋が描かれているようで、「13 1 27」の記載がある端島の風景印にも左写真の形式と思われる石炭積込桟橋が描かれているようです。


写真《昭和20年6月11日にアメリカ海軍潜水艦「ティランテ」の魚雷攻撃を受け、石炭運搬船「白壽丸(3,600トン)」が被弾沈没。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 閉山時には1基の積込桟橋しかありませんでしたが、この写真には2基の積込桟橋が写っていて、被弾沈没している白壽丸の姿と併せ貴重な写真と思います。
 なお、NHKによる昭和22年撮影の映像には閉山時にはなかった手前(南側)の積込桟橋が写っていて、 同年撮影の 国土交通省「空中写真」 においても2基の積込桟橋が写っていますが、 アサヒグラフ(昭和23年8月25日発行) に掲載の島の写真では手前(南側)の積込桟橋は撤去されていますので、積込桟橋が1基となったのは昭和22か23年となるようです。
 ちなみに、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、345頁>には「また昭和24年末に選炭機を全面改修し,次いで,積込桟橋の更新等の坑外諸設備の改善を逐次完了して,生産体制は一応確立に至った。」との記載がありますので、奥(北側)の積込桟橋も手が加えられているようです。


<出典 : 高島町政三十年の歩み 町制施行30周年記念史>
 24年の文字が見えますが、手前(南側)にあった積込桟橋はなく、奥の積込桟橋しかありません。
 なお、この写真は昭和24年に端島にて行われた、松竹映画「緑なき島」の撮影時の光景ですが、当時の上陸桟橋(クレーン式)上にいらっしゃいますのは映画に出演された佐野周二さんと磯野道子さんです。


<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>

写真
<写真は”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 テレビがない時代は、夕顔丸が欠航しても映画のフィルムや新聞は、写真のように、石炭積込桟橋を利用して荷上げしていたようです。

写真《海化た日に映画フィルム 荷揚げ作業(便船は欠航)》
  <写真は島の先輩より>

 石炭積込桟橋の先端での作業のように思います。



《昭和30年7月8日、ヂストリビュータが海中に墜落。》
  <高比良勝義氏(元島民)撮影>

 この落下、閉山間際の昭和48年4月にもありました。山道で読書(マンガ?)後に、桟橋方向を見ると、さっきまであったヂストリビュータがありません。よく見ると墜落し、半分船上で半分船から垂れ下がっていました。その後は、ヂストリビュータがないので船を前後に動かし積み込みを行っていましたが、暫くすると体育館の横でヂストリビュータを製作しだしたので、作業をされている方に 閉山まで僅か であるが何故かと伺いますと、船を動かすよりも、新たに製作した方が安上がりとのお話しでした。
 ちなみに、<『軍艦島 端島労組解散記念史』、端島労働組合、1974>には、「昭和48年4月、突如積込桟橋シュート部が落下」の説明と写真があります。


《昭和31年8月19日撮影》  <高比良勝義氏(元島民)撮影>
 上段写真の積込桟橋上には何も載っていませんが、こちらの写真では構造物が載っています。その構造物がヂストリビュータで、桟橋上を前後に動き、左右に首を振ることで、船が動くことなく、石炭を均一に積み込む設備です。
 なお、写真中段にある円形の台座上にはクレーンがありましたが、台風で吹き飛んでしまった時の光景のようです。ちなみに、閉山時は前後にも動けるクレーンでしたが、この時は回転だけのようです。

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 この写真の左側に写るクレーンが左写真の円の台座上にあったクレーンで、閉山の頃のクレーンと違うようです。


〔仮設?石炭積込桟橋〕

<写真は島の先輩より>
 第四竪坑櫓やその海側には石炭積込桟橋の基礎(写真左下)が写っています。こちらの基礎には、閉山まで石炭積込桟橋が載っていたかと思いますが、こちらの写真ではその姿を見ることができないようです。ちなみに、<『”はしま" ◀閉山記念特集号▶』、記念アルバム”はしま"編集委員会>には「1959年(昭和34年) 台風により、上陸桟橋、積込桟橋流失」の記載がありますので、その時の写真ではないかと思いますが如何でしょうか。この写真を切り抜く前の写真には、おそらく、6階建ての時の小中学校校舎の姿がありますので、年代的にも合うのではないかと思っています。
 ちなみに、石炭積込桟橋基礎の右側に停泊している運搬船の上部には、ベルトコンベアーのようなものが写っているようで、石炭積込桟橋が復旧するまでの間はベルトコンベアーのようなもので積み込みを行っていたのではないかと思います。


〔石炭積込桟橋⑦〕

<写真は島の先輩より>
 写真左側の「紙の牛乳の箱を逆さまにしたような設備」が、昭和40年代初め頃にできた石炭保管設備で、選炭場付近から斜め上に延びるベルトコンベアーで石炭を流し込んでいました。また、石炭保管設備の左側にあって海に向かって延びているのが、石炭保管設備用の石炭積込桟橋になります。
 ちなみに、島の先輩によりますと、通常の石炭より少し質が落ちる二号炭を保管していた設備とのことでした。

写真
<村里 榮 氏撮影>
 ドルフィン桟橋へ渡る橋からの光景ですが、大きな石炭積込桟橋の手前に小型の石炭積込桟橋があります。この桟橋から運搬船に石炭を落とした際には、ゴトゴトと大きな音がしていて、今思えば、この場所にある石炭保管設備や石炭積込桟橋は塊炭用の設備だったのではないかと思っています。


写真
<写真は島の先輩より>
 大きな石炭積込桟橋や貯炭設備は残っているのに、斜めに架かっているベルトコンベアーの姿が見えません。

写真
<写真は島の先輩より>
 小型の石炭積込桟橋も見えません。閉山後早めに撤去されたのでしょうか?。


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