65号棟

 最終の65号棟 :  昭和20(1945) 鉄筋コンクリート造7階(後日、9階への増築等) 鉱員社宅 、昭和33年新65号棟(10階)増築
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 <阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集』、東京電機大学出版局、1984、654頁>では「端島では最大規模の延床面積(16,895㎡、5,111坪)と最高の階数(地上10階、地下1階)を持つ総戸数313戸のRC造の大建築である。」との記載があります。
 なお、こちらのページでは65号棟の部分的相違を示すために、病院側部分(学校側部分の一部含む)を北棟、学校側部分を東棟、新65号棟部分を南棟(新65号棟)の名称で記載しています。

写真<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 写真は昭和32・33年頃の島の光景ですが、写真左下の空地が小中学校グランド、その上の白い大きな建物が小中学校、その右側の灰色の建物が65号棟の北棟と東棟、その直ぐ上の白い建物が65号棟の南棟(新65号棟)で、65号棟屋上には平屋の建物(北棟)と 保育所 (東棟)が見えています。なお、地下には米穀倉庫(北棟・屋内出入口(3ヶ所)と病院側屋外出入口)、理容院・美容院(東棟・公園側屋外出入口)、製氷施設(東棟・学校側屋外出入口)がありました。65号棟が北棟と東棟のみだった頃の島全体の航空写真については こちら をご覧ください。

 ちなみに、エレベータ関係については、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集』、654頁>には「端島のアパート群には一基のエレベータも設置されていないが、65号棟の病院側には階段室に向かい合った位置にエレベータシャフトが組み込まれており、屋上には機械室用のペントハウスが立ち上がっている。しかし、戦時中の建設で器材が入らなかったためか、シャフトはエレベータが設置されないまま、木製の床が張られ、隣接の張り出しベランダとともに改造されて住居として使用されていた。」の記載があり、<『新住宅』、新住宅社、昭和25年下巻合本、44・45頁>にある65号棟(まだ、北棟と東棟のみの時代)の紹介記事に掲載されている平面図や平面図説明ではシャフト部分は集會所となっていますので、シャフト部分は集會所を経てから住居として使用されたようです。また、<『新住宅』、44・45頁>の平面図や平面図説明では東棟の閉山の頃に共同洗濯場だったと記憶している部分は共同炊事場で、その奥側(後日、南棟(新65号棟)が建つ部分側)に共同洗濯場があり、時代の変遷を感じています。なお、水道については、 南棟(新65号棟)には当初から設置 されていたようですが、北棟と東棟の水道は後付けだったようで状況については こちら をご覧ください。


写真<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 65号棟は、北棟、東棟、南棟(新65号棟)の順に建てられますが、写真の右端には65号棟が北棟のみの姿で写っています。なお、北棟も、最初7階建てで、その後9階建てに増築されていますが、写真に写る北棟は7階建て、9階建てのどちらでしょうか。


写真
<写真は島の先輩より>
 上段写真とは別の写真から、神社より65号棟にかけての部分を拡大した写真になりますが、65号棟はまだ北棟のみで上層階が工事中とも思われる姿です。ちなみに、昭和22年に撮影された端島の映像や写真では2基の大きな石炭積込桟橋があるようですが、この写真の部分拡大前の写真では1基の大きな石炭積込桟橋しか写ってなく、また、65号棟の東棟の姿も見えていませんので、この写真は昭和22・23年ぐらいの撮影で、65号棟は9階の姿ではないかと思います。
 ちなみに、<炭の光(昭和23年7月15日)>の記事には、65号棟が報國寮のこととして、7階建てで建物内には寮(単身)と社宅(世帯持)が混在していることが書かれていて、 「第二寮自治會 三周年記念 長崎港外端島炭坑 1949 5.1.」 と題された風景印のことで島の先輩方にお伺いしたときも「当時の第二寮は65号棟内の一部を使用した寮の一つだった。」とのことでした。なお、閉山間際の頃の65号棟内には社宅(世帯持)のみで、第二寮自体も他の建物内にも残ってはなく、いつ頃まで第二寮が存在していたかは存じていませんが、昭和29年消印で宛先が「長崎港外三菱端島炭礦 二寮内」となっている葉書が残っています。


写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 中の島からの撮影です。東棟はほとんどできていない状態のようですが、東棟の神社側にあった大きな煙突は完成時の高さ迄はないものの存在が確認できます。
 なお、東棟の中にも寮が存在した時期があったようで、<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、60頁>には、部屋の窓から 丸い清水タンク や学校海岸のクレーンが見えている写真が掲載されていて、説明には「[1952]65号棟の東棟の比較的陽当りの良い学校側の部屋の室内。単身者の相部屋のようである。」の記載があります。


写真
<写真は島の先輩より>
 57号棟方向から望む光景です。北棟は9階建てとなっていますが東棟はまだ6階までの工事中のように思われ、当然ながら、北棟と東棟の境目には高さの違いが生じていますが、その境目の部分は こちらの図面(昭和24年) で北棟と東棟の境目にある線ではないかと思っています。
 なお、間違いの節はお許し願いますが、左写真では東棟の6階屋上部分に向かって、左上の上空から細長い構造物が延びていて、その正体は下段写真に写る大きな塔?から左下に向かって延びている細長い構造物が、東棟の6階屋上部分に向かっている姿ではないかと思いますがいかがでしょうか?。ちなみに、 北棟が工事中と思われる頃の写真 では、大きな塔?から延びている細長い構造物は北棟の屋上に向かって延びています。


写真
<出典:新住宅(新住宅社、昭和25年下巻合本)>
 北棟は9階建てで、東棟は6階建ての頃の光景と思います。大きな塔?から延びている細長い構造物は、まだ、9階までが完成していない東棟に向かって延びているのではなく、67号棟方面に向かって延びている点が気になりますが、下段の2枚の写真に写る大きな塔?から延びている細長い構造物も67号棟方面に向かって延びているように思われます。
 ついては、この大きな塔?から延びている細長い構造物ですが、写真による記録では、北棟の建築工事時、東棟6階までの建築工事時、67号棟方面の工事時に関与しているようで、写真はありませんが、その後、東棟の7階以上の増築工事の際にも使用された可能性もあり、数多くの建築工事等に寄与した設備と思っています。ちなみに、大きな塔?は日給建築時にも用いられていますので、 絵葉書1 絵葉書2 からご覧ください。


写真
<出典:新住宅(新住宅社、昭和25年下巻合本)>
 北棟9階建て・東棟6階建てのようで、北棟と東棟の境目ぐらいには「大きな塔?」が見えています。炭の光(昭和26年7月)には9階建てとなった東棟の姿に7階以上は増築である旨の表示がなされた写真や記載があり、左写真に写る東棟は 6階までの建設工事 が終了して、7階以上の増設工事を待つ時の光景のように思います。なお、 こちらの写真 に写る65号棟南面の6階までと7階以上で壁の色が異なっているのは、建築時期の相違が原因と思っていますがいかがでしょうか?。ちなみに、昭和25年8月撮影の 「青年ペーロン大会優勝記念」写真 の背景には、足場を組んで7階部分を増築中と思われる東棟の姿が写っています。

写真
<出典:国際文化画報(昭和26年4月発行)>
 左写真と同時期の光景のようで、65号棟の神社側には大きな煙突が見えます。また、東棟前の2本?の小さな煙突や、貯炭場の配炭機桟橋が 石炭積込桟橋を越えて島の北側に延びている など、閉山時とは違った光景も覗えます。




写真
<出典:社会大観・第4号((株)世界文化社・昭和31年8月20日発行)>
 65号棟が、まだ、北棟と東棟のみの頃の写真で、閉山の頃に公園だった場所には長屋が建っています。
 また、北棟屋上のフェンスは、閉山の頃と違い、かなりの高さがあるようですが、島の先輩からは、会社のバレーボール倶楽部のため、屋上の周囲に高いフェンスを設置し赤土を搬入してバレーコートを設けていたことを伺っています(それでもボールはネットを越えて下に落ちる事もあったそうです。)。また、別の先輩からも、その頃は明かりを灯してフォークダンスの練習も行っていたことも伺っています。

写真
<出典:社会大観・第4号((株)世界文化社・昭和31年8月20日発行)>
 閉山の頃には、東棟の屋上には周辺部分と中央部分に煙突がありましたが、この写真には中央部分の煙突はなく平地となっていますので、この部分を利用して、バレーボールやフォークダンスを行っていたようです。
 ちなみに、島の先輩にお伺いしましたところ、その昔、建物の中央部分には煙突はなく後で設けられたとのことでした。


写真
<写真は島の先輩より>
 山道から見る光景です。小中学校校舎の姿は、 昭和32年4月焼失の先代校舎 です。65号棟東棟は9階まで完成し、屋上には 昭和28年設置の保育園 があって、65号棟7階と 56号棟 1階や山道を結ぶ「連絡橋」もできていますが、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、555頁>に掲載の「図版7-31」の説明には「56号棟1階と65号棟7階を連絡する神社下のRC跨線橋設計図(砿業所保管の設計図-昭和27年-のコピーから作製)」の記載があり、「連絡橋」は昭和27年頃に設置のようです。あくまでも管理人の想像ですが、昭和28年には65号棟屋上に保育園ができることから、「連絡橋」の設置目的には、島の高台にあった建物や日給等の上層階に住む子どもたちの通園路の目的も含まれていたかと思います。ちなみに、昭和23年頃の撮影で東棟や「連絡橋」がない頃の光景は こちら の写真をご覧ください。

写真《屋上より夕顔丸を見送る》
  <写真は島の先輩より>

 夕顔丸、最後の航海を見守る人々でしょうか。保育所の屋上や65号のベランダには多くの人々が見えます。


写真
<写真は島の先輩より>
 写真正面の建物は南棟(新65号棟)ですが、「炭の光(昭和32年)」には「当初の建設計画としては、地階をマーケット、一階より九階までが社宅として予定されていたが、地下掘さくの結果、意外に深い岩盤のため、完期その他の事情により、地下室がなく」や「水洗便所、さらには、待望の各戸給水設備、すなはち各戸毎に水道がひかれ、常時水の使用に恵まれるところなどは、実に理想的な住宅となる」の記載があります。なお、写真下には、65号棟に囲まれるようにして設けられている公園が見えています。
 また、南棟(新65号棟)1階には、第一詰所、集会所、組合がありましたが、集会所では大人の方が碁(将棋もだったかは覚えていません。)を楽しむ場所でもありました。大勢の方が集まる施設があったためでしょうか?、南棟(新65号棟)1階には共同便所も設けられていました。

写真<写真は島の先輩より>
  コの字型に建設された65号棟の内側になります。右側の白っぽい建物が南棟(新65号棟)で左側の建物が東棟ですが、北棟からの撮影になります。


写真
《石炭資料館所蔵写真》  <長崎市高島石炭資料館蔵>
 町勢要覧(昭和48年4月)に掲載されている「端島公園」の写真です。たくさんの遊具があったことが思い出されます。
 昭和40年代に小中学生だった私が、最もお世話になった公園で「鉄パイプを縦に円形に配置した筒状の遊具」がお気に入りでした。
 今でも、仲良くしていた友達と公園で遊んでいた頃の光景を覚えていますが、その友達は閉山の4・5年前に端島を去り、その後一回会っただけで、それからは会うことができていません。今、どこで、何をしているのでしょうね?。


写真
<長崎県立長崎図書館所蔵の『高島町端島(軍艦島)昭和49年』から許可を頂き掲載>
 ブランコの先に写るのが、お気に入りの「鉄パイプを縦に円形に配置した筒状の遊具」です。よく、遊具に登って、上の方で腰掛けていました。
 ちなみに、公園の部分ですが、その昔は木造二階建ての住居があったようです。


写真<村里 榮 氏撮影>
 公園の奥の方にあった「白い丘のような遊び場」もはっきりと写っていますが、その設置方法は今でも覚えています。
 なお、公園の先の東棟の地下には理美容室がありましたが、「炭の光(昭和25年)」では「L形に理髪台が七台、各々の前には縦一米の鏡」と理容室についての記載があります。たくさんの理容師さんの中に、確か、お一人の女性理容師さんがいらっしゃたように記憶しています。


写真
<村里 榮 氏撮影>
 北棟1階のテニスコート側の出入口から少しに入った箇所の光景です。
 ちなみに、写真左側の方にトイレがありましたが、学校にて大便器の部屋?を使用するのが恥ずかしくて、学校からこちらのトイレまで来て使用した思い出があります。

写真<村里 榮 氏撮影>
 65号棟内の共同洗濯場の光景です。


写真
<写真は島の先輩より>
 東棟と学校間の通路です。大人の方が3人並んでいる場所の右側には、65号棟のダストシュートの設備らしきものが写っています。また、大人の方が3人並んでいる場所の直ぐ左側には学校グランドの塀がありますが、このように狭い場所をトラックが通っていたのかと思うと今更ながら驚きです。

写真
<長崎県立長崎図書館所蔵の『高島町端島(軍艦島)昭和49年』から許可を頂き掲載>
 東棟の体育館側出口で、手前が体育館の下を通る通路でした。

写真
<写真は島の先輩より>
閉山時の光景ですが、変電所ぐらいから望む光景でしょうか。



〔 閉山後の光景 〕

写真
<2004年3月撮影>
 島に住んでいた時には、給食の配膳用に設けられた小中学校のエレベータしか知しらず、65号棟エレベーターの設置計画の話は知りませんでした。なお、当時屋上で遊んでいた時は感じませんでしたが、写真に写る機械室はかなり大きいようです。

写真<2012年撮影>
 東棟側ですが、体育館の屋根はほとんどが壊れてしまっています。


写真
<2012年撮影>

写真<2012年撮影>


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