◎大 納 屋

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 以下に、各種情報を記載させていただきます。

  • <朝日新聞社編集、『聞き書き軍艦島』、昭和49年1月10日、非売品>には「昭和初年、端島に大納屋が十数軒。独身者は全員入った。三菱鉱業は「納屋制度は収奪機関化し、鉱員定着にも逆効果」として、他社に先駆けて逐次、会社直轄の独身寮に切り替え、十五年ごろまでに全廃。」の記載があります。

  • <軍艦島実測調査資料集(追補版)、636P>には「納屋制度の廃止は高島鉱が全国にさきがけて明治30年に決定している。しかし、それが直ちに全国的に実施されたわけではなく、端島鉱では、大幅に遅れ、労働争議をきっかけに大正5年に改革の方針を決定し、その第一歩として小納屋(世帯持坑夫)の直轄化が始められ、大納屋の全面的廃止は昭和10年代の半ばまで待たねばならなかった。」の記載があります。

  • <筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、356頁>には「一九三〇年(昭和五)  8.10 三菱高島,端島に最初の直営合宿所完成.」の記載があります。

  • <後藤惠之輔・坂本道徳、『軍艦島の遺産』、長崎新聞社、2005年、37・38P>から抜粋しますと「明治30年(1897年)高島炭鉱の納屋制度が廃止され、この改革が、当時高島の支山であった端島においても断行されたことはいうまでもない。」の旨の記載があります。

  • <『婦人之友』、婦人之社、昭和11年、88・89P>から抜粋しますと「独身者のためには1日3食付42銭で泊める会社直営の合宿、請負の合宿などがあります。この島も炭坑の常として鑛夫たちの出入りが激しく1月に100人は入れ替わるそうです。」の旨の記載があり炭坑の厳しさは感じますが、大納屋の言葉はありませんでした。


 島の先輩には「自分の親が端島に来たのは明治30年以降であるが、その時には納屋があったと聞いている。」や「昭和初期には、明治30年の頃のような大納屋は存在していないのではないか。」などいろいろなお話しを伺っています。


写真《端島炭坑合宿員全部 明治四拾五年三月撮影 》  <所有写真>
 明治45年には「合宿」と呼ばれていたようです。
 タイトルは「全部」となっていますが、写っている人数が少ないようです。入居者全部による写真ではなく、合宿管理者全部の写真でしょうか?。
 なお、<筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、312頁>には、「一九二二(大正一一)  7. 5 三菱高島,坑夫付飯屋を坑夫合宿と改める.」の記載があります。


 

島のいろいろへ

TOP