中ノ島炭坑3(その後1)

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真
<出典 : 国土交通省「空中写真」、整理番号USA、コース番号M185、写真番号37、撮影年:1947(昭22)>
 昭和22年撮影の空中写真から中ノ島の部分を切り抜きました。島中央部の下側の海岸線には船着場が見えていますが、昭和37年に中の島公園が完成する前から存在していたようです。昭和37年に公園ができる場所は緑に覆われているようですが、その左側(野母崎側)には空き地らしき場所が見えます。何があったのか非常に興味が湧きます。


写真
<出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=556746)>
1962/05/30(昭37)撮影の上記データから、「中ノ島」の部分を切り抜き、「長崎県下中ノ島炭坑ノ図(独立行政法人国立公文書館所蔵)」と同じ状態とするため、写真を回転しています。
 公園ができた年の撮影です。公園や通路の状況がよく分かります。


写真
<出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1045036)>
1975/01/02(昭50)撮影の上記データから、「中ノ島」の部分を切り抜き、「長崎県下中ノ島炭坑ノ図(独立行政法人国立公文書館所蔵)」と同じ状態とするため、写真を回転しています。
 公園や通路ですが、かなり、緑に覆われてきているようです。


写真《中の島、端島(昭和37年)》
<「高島町の足跡」(平成16年12月高島町発行)から、許可を得て掲載>
 中の島の山頂付近に公園が完成した頃の写真かと思います。<「炭の光」、中の島の今昔>によりますと、戦前戦後にかけての約5、6年間のこと、ある夫妻と男の子計3人が中の島に住み、山羊二十数頭、豚3匹を飼育し、野菜も栽培していたそうで、飲料水や米は、端島まで取りに通い、子供は小船で通学していたそうです。
 ちなみに、2000年以降に何回か上陸した際に、島内を飛び跳ねる「うさぎ」を見たことがあり、島の先輩にお伺いしましたところ「山羊が飼われていた時に、既に一緒に飼われていた。」とのことでした。なお、見たのは初めの方の一回きりだったようで、最後の方は見ることはありませんでした。


〔 岬の部分 〕

写真
<2005年撮影>
 中ノ島の山の部分の山頂付近からの光景です。島の中央部分や岬の部分の様子がお分かり頂けるかと思います。また、最上部には、海を挟んで野母崎が写っております。

 下記WEBは中ノ島について非常に詳しく調べられていて、大変参考になります。
 「廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-」 の中にある
 『【特集】中ノ島 #01 - 廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-』

写真《 柿田 清英 氏 撮影 》
  < 関係者の許可を得て掲載 >

 以前、柿田さんに、拙HPの掲示版にご投稿いただいた写真で、その時は、柿田さんと中ノ島にご一緒させていただいた時の撮影です。柿田さんによる掲示板の写真説明には「瀬の平地に当たる部分がこれ程までに水没する状況を見てとても驚きました。同時に、痕跡は残っているもののまるで海の中とも思える土地を本当に利用していたのだろうかと疑問に感じた一瞬でした。」との記載がございました。


写真
<2010年撮影>
 岬の野母崎側最先端部の場所です。


写真
<2010年撮影>
 端島に住んでいた頃、野母船で中ノ島の近くを通り過ぎるときに、中ノ島の野母崎半島側の先端部分付近に、あくまでも個人的感想ですが動物に似た岩がありました。確証はありませんがもしかしたらこの岩でしょうか?

写真<2010年撮影>
 動物に似た岩はこちらかも??。


写真
《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 岬の方から山の部分を眺める光景になりますが、以前、柿田さんに、拙HPの掲示版にご投稿いただいた写真で、掲示板の写真説明には「瀬の切れ目に掛け渡された3つ目の橋です。 」との言葉がございました。ちなみに、釣りを行う方々が移動できるように設けられたものと思っておりますが如何でしょうか?。

写真<2010年撮影>
山の部分に少し近づいてみました。


写真
<2005年撮影>
 このような穴が無数にあります。おそらくですが、この穴には木の柱が差し込まれて利用されていたのではないかと思っています。

写真<2010年撮影>
 丸い穴が整然と並んでいます。


写真<2010年撮影>
 細長い四角の穴もあります。


写真
<2010年撮影>
 ほぼ正方形の穴もあります。

写真<2010年撮影>
 ほぼ正方形の穴が並んでいます。


〔 岬の根元部分・端島の反対側 〕

写真
<2010年撮影>
 かなり潮が引いている時の写真ですが、海面近くには青海苔がたくさん生えています。また、写真の中央部分ですが、天川と石垣による護岸が残っています。

写真<2010年撮影>
 左写真の中央部分の拡大ですが、護岸の名残が伺えます。
 なお、護岸の下に写っている白いボールは発砲スチロール製の漁網浮標のようです。


写真
<2010年撮影>
 赤煉瓦の構造物が数多く見えます。

写真<2005年撮影>
 左側の写真では左下の部分になりますが、円形の煉瓦遺構があります。

写真<2005年撮影>
 円形の煉瓦遺構の中央部分の拡大です。ちなみに、この遺構の煉瓦は蒟蒻煉瓦ではなく通常の煉瓦です。


写真
《 柿田 清英 氏撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 左の二段組写真は、以前、柿田さんに、拙HPの掲示版にご投稿いただいた写真です。前出の写真に写る円形の煉瓦遺構の場所において、潮が満ちたら二段組写真の上にある写真の光景となるようです。
 また、二段組写真の下の写真の説明には「添付写真は、円形の煉瓦遺構の先にあったもので、岸から近く、水面からでも良く見えました。殆どと言っても良いのですが、水中遺構の大部分は、岸近くの浅い所で見ることが出来ました。 」との記載がありました。私としては、二段組写真の下にある写真の丸い構造物は、海水取水のための管のようにも思えますが如何でしょうか?。

写真
《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 上段の写真も、以前、柿田さんに、拙HPの掲示版にご投稿いただいた写真で、写真右上には、小さく「円形の煉瓦遺構」が写っています。説明の記載はありませんでしたが、かなり潮が引いた時は、このような光景になるようです。そして、「二段組写真の下の写真に写る丸い構造物」は、もっと海側に位置するようです。


写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 以前、柿田さんに、拙HPの掲示版にご投稿いただいた写真です。
 柿田さんによる写真の説明はなく、撮影された場所の特定はできずに、当初は別のページに掲載していましたが、よく見ると、写真右下部分には、上段や下段写真に写る配管が見えるようです。


 以前、柿田さんが作成されていたHP「中ノ島」(以下、「HP『中ノ島』(柿田氏作成)」と記載)に掲載されていた「二段組写真の下の写真に写る丸い構造物」関連の写真(満潮時?)について、関係者から拙HPへの掲載許可をいただき以下に掲載させていただきます。

写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 前出の「二段組写真の下の写真に写る丸い構造物」の1枚物の写真です。HP『中ノ島』(柿田氏作成)では、この写真の説明に「近くから見ると不思議な形をしていることが分かります。中心から突き出た細目のパイプや窓らしき穴の存在も気になります。色々と想像はして見るのですが、元の姿や使用されていた時の状況は見えて来ませんでした。」の記載がありました。
写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 角度を変えての撮影です。HP『中ノ島』(柿田氏作成)では、この写真の説明に「さらに近づいて表面を見ると、無数の穴が等間隔で開いている様子が分かります。」の記載がありました。
写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 真横からの撮影ですが管の先には小さな穴がたくさん開いています。HP『中ノ島』(柿田氏作成)では、この写真の説明に「表面の穴はフイルターの印象があります。取水施設の一部だった証拠と思います。」の記載がありました。
写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 写真左下に「丸い構造物」が見えています。沖合から陸側に向かっての撮影ですが、構造物は石積に覆われていることが分かります。
写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 石積の右側のアップになります。HP『中ノ島』(柿田氏作成)においては、この写真の説明に「配管は3-4m程の長さでしたが、海底にガッチリ固定されていました。」の記載がありました。
写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 上段写真の場所を横からの撮影です。写真右側が陸地側になります。HP『中ノ島』(柿田氏作成)においては、この写真の説明に「水面からでも見える浅い所に、太い鉄製配管が沈んでいました。動かない様にする目的なのか、重しの様なもので固定されていました。」の記載がありました。


 以下2枚の写真についても、HP『中ノ島』(柿田氏作成)に掲載されていた写真で、関係者のお許しをいただきまして掲載させていただきました。

写真
《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 HP『中ノ島』(柿田氏作成)においては、この写真の説明に「別な場所で見つけた配管です。しっかり固定された状況が分かるので、以前よりこの場所にあったものと思います。先の配管とは並行に並び、15m程離れた場所に残っていました。」の記載がありました。ちなみに、こちらの写真においても、配管を固定するためでしょうか?、配管の右側に大きな石が見えておりますが、上段までの写真に写る大きな石は角が丸くなっているのに、こちらの写真では角が尖っていると思われる点が気になります。

写真<「Google マップ」に黄色で位置情報を付記:柿田 清英 氏作成>
< 関係者の許可を得て掲載 >
 「Google マップ」に黄色で位置を示しています。左写真に写る配管ですが、こちらの図では、一番左側の小さく黄色で塗られた場所に位置するようで、その右側にある最も縦に長い部分の下端が「丸い構造物」の場所になるようです。


写真
<2010年撮影>
 海側から見て、円形の煉瓦遺構の右側の光景になりますが、上から見るとほぼ正方形の煉瓦構造物が岩場に転がっているように見えます。

写真<2010年撮影>
 左写真の構造物を側面から見たところです。


写真<2010年撮影>
 上段構造物を海側から見た光景ですが、構造物の底の状況がお分かり頂けるかと思います。


写真
<2010年撮影>
 海側から見て、ほぼ正方形の煉瓦構造部の右側の光景です。上から見て、長方形の構造物がありますが、構造物を支えていた基礎が流され、自重に耐えきれなくなってポッキリ折れて、岩場に転がっているように見えます。

写真<2005年撮影>
左写真を反対側から見る光景です。


写真
<2010年撮影>
高台から見た上段構造物の光景です。折れた面の光景になります。

写真<2010年撮影>
 高台から見た上記構造物少し斜めの光景です。


写真
<2010年撮影>
 ここら当たりは、島の高台(操業時の地盤レベル)から落ちてきたと思われる構造物がたくさんあります。写真中央に斜めに落ちてきている構造物やその右側の構造物を見ると構造物には穴が開いていますが、何の目的で開けられたものでしょうか?。

写真<2010年撮影>
 左写真にて、写真中央に斜めに落ちてきている構造物の裏面です。中段の煉瓦2枚ですが刻印らしき模様が見えています。なお、煉瓦が大変劣化している影響もあるかと思いますが、刻印らしき模様がある煉瓦は非常に少ない数です。


写真
<2010年撮影>
 刻印の拡大図その1です。「〇」と「|」が合体された刻印です

写真<2010年撮影>
 刻印の拡大図その2です。「・」が円を描いている刻印です。


長崎の蒟蒻煉瓦については、下記論文に詳しい記載がありますので、よろしかったらご覧願います。

「長崎地域における歴史的な蒟蒻赤煉瓦造建造物に関する研究」
http://hdl.handle.net/10069/5937(長崎大学 学術研究成果リポジトリ)


〔 岬の根元部分・端島側から高台手前部分 〕

写真
《高島→中ノ島を通って端島に向かって敷設中の送電海底ケーブル敷設工事(大正6年)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 高島から端島に向かう送電海底ケーブルは何通りかの経路が設けられているようですが、その内の一箇所での光景です。写真上段には端島が見え、手前の陸地は中の島となります。


写真<2005年撮影>
 上段右側写真とほぼ同じ箇所での撮影となります。写真中央にはケーブルらしき物が写っていますが、このケーブルは送電用の海底ケーブルと思っていて、写真左側の先にある端島に向かって、ここから海面下にケーブルが潜り込む場所となっています。
 なお、写真の左側ではケーブル上に保護材料が被さっていて、写真中央や左側には保護材料が被さっていないのは経年による劣化で保護材料がなくなっているためのようで、もう少し右側に行くとケーブルや保護材料が残っています。


写真<2005年撮影>
 上段写真のケーブルらしき物の拡大画像です。一番外側に鉄製のカバーがあって、その内側には複数の芯を覆っている何本かのゴム管?が見えています。

写真<2005年撮影>
 方向を変えての撮影です。


写真<2010年撮影>
 上段写真に写るケーブルと同じ場所だったのか、それとも違う場所だったのかは忘れてしまいましたが、違っていてもそんなには離れてはいなかったと思います。岩と岩の間には、人工的な綺麗な石畳?が設けられていることが分かります。

写真<2010年撮影>
 左写真よりも少し引いて撮影してみました。

写真<2010年撮影>
 こちらの写真も、左2枚に写る場所と同じ場所だったのか、それとも違う場所だったのかは忘れてしまいましたが、違っていてもそんなには離れてはいなかったと思います。


写真
<2010年撮影>
 写真の右側には、島の高台に上がる階段がありますが、岩場を削ったような階段でした。

写真<2010年撮影>
 階段を上がりきった場所から望む光景です。


写真
<2010年撮影>
 なだらかな上り坂となっております。写真手前の地面には溝のようなものがありますが、もう少し先に行った場所の溝にはコンクリートらしきもので蓋がされています。

写真<2010年撮影>
 溝の中には電線が埋設されています。


写真
<2010年撮影>
 写真右上には端島が見えます。また、左下には埋設されていた電線が地面から顔を出しているのがわかります。

【 電力用海底ケーブル関係論文 】
https://doi.org/10.11526/ieejjournal1888.72.310
 〔 電氣學會雜誌 〕1952 年 72 巻 765 号 p. 310-312
   電力用海底ゴムケーブルの修理について
高島の二子発電所から端島への送電に用いられた電力用海底ケーブルや九州電力から受電するための岳路~二子間の電力用海底ケーブルに関する論文です。二子から端島への電力用海底ケーブルに関する記載には、経路は中ノ島に一度陸上げしているものと、端島に直行しているものの二種類があることや、その違いに関する理由も書かれています。



写真《 3.500V 3x100平方粍 GRI 絶縁8粍鉄線鎧装海底線 三菱鉱業株式會社 ( 高島-端島間 ) 1954 》
<古河電気工業株式會社>
<所有品>
 1954年(昭和29年)の海底電線(高島-端島間 )を中に入れた文鎮?の写真です。



写真<2010年撮影>
 階段を上がりきった場所からもう少し進んだ場所です。写真中央にはコンクリートらしきもので蓋がされた溝らしきものが見えています。

写真<2010年撮影>
 また、少し進んだ箇所です。方向的には階段方向を望む光景です。


〔 中央部分の高台 〕

写真
<2010年撮影>
 写真中央部の煉瓦の下の地盤は崩れているようです。

写真<2010年撮影>
 高台を下の場所から見た光景です。左写真の場所かは不明ですが、このように煉瓦の下の地盤が崩れている箇所があります。


写真
<2010年撮影>
 火葬場付近の場所です。こちらの煉瓦の下には地盤が残っていますが、地盤の側面を見ると石が積み重ねられているのが分かります。

写真<2010年撮影>
 昭和37年に完成した公園に通じる階段のスタート地点付近です。


写真
<2010年撮影>
 高台の部分です。今では広場となっている部分ですが、煉瓦が飛散しています。

写真<2010年撮影>
 高台ではなく、高台の直ぐ下の箇所にて煉瓦を並べて撮影しました。蒟蒻煉瓦だけではなく、通常?の煉瓦も存在しております。


写真
<2010年撮影>
 火葬場があった高台には、ベンチも残っておりますが、中には倒れているものもあります。

写真<2010年撮影>
 火葬場があった高台の地面には、煉瓦が敷かれている場所があります。


写真
<2005年撮影>
 溝でしょうか??。『中ノ島操業時?』の『《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大2』の映像には、排水口らしき姿が伺えますが、その排水口に繋がっていた溝ではないでかと想像します。ちなみに写真奥の方が高台で、手前は端島側の海の方になります。

写真<2010年撮影>
 溝を真上から見てみました。


戻る

高島・中ノ島・横島へ

TOP

次へ