中ノ島炭坑4(その後2)

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真
<2019年撮影>
 このページで紹介する場所は中ノ島の長崎半島側ですが、ほぼ写真の範囲となります。


写真<2019年撮影>
 以下の説明に於いて、全てではありませんが写真にある丸数字で場所を示させていただきたいと思います。


写真
<2005年撮影>
 一番上の写真で左端の方に位置する場所です。写真左側の斜めの構造物が島の高台?に登る階段で、階段の上の方には、竪坑の穴だったと思われる大きな穴の周りを囲ってるコンクリの塀が見えます。また、写真の手前部分には現在の船着き場が有ります。
 管理人の勝手な憶測ですが、この部分は、昭和30年代後半に中の島公園を作る時にかなり手が入った場所ではないかと思っています。


写真
《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 以前、柿田さんに、拙HPの掲示版に投稿いただいた写真です。説明には、「2003年に撮ったものですが、このとき既に通路の下部が抉れていました。」との記載がありました。

写真《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 左写真の比較用として、同時に投稿いただいた写真です。説明には、「今年(2010年)撮った分ですが、変化が分かります。それにしても階段は何なのでしょうか。満潮時には完全に水没して海中遺構を思わせる姿になりますので・・・。完成当時の桟橋は、長方形で、片側に端島と同じすべりの構造が存在しました。今は特に満潮時には足を濡らしながら上がる覚悟が必要な様です。」との記載がありました。


写真
写真
<2005年撮影>
 これらの画像2枚は、最初の写真の、右側中段位の位置を撮影したものです。赤い矢印の先の岩盤に、穴らしき物が見えますが、このような穴が何個か、並んでいます。
 管理人としては、昔、この岩盤の海側にあった建物の「つっかえ棒」が収められていた穴ではないかと想像しております。


写真
<2005年撮影>
 内海側で、島の真ん中ぐらい(①の場所)から野母崎方向を望む光景です。

写真<2005年撮影>
 左写真の撮影場所から180度回転して高島方向を見る光景です。(①の場所から②の場所)
 赤煉瓦の構造物の高さの場所が炭坑が操業していた頃の地面の高さと思います。


写真
<2005年撮影>
 ②の場所には井戸のような構造物があります。
 なお、この穴は中ノ島炭坑第三坑の可能性があるようにもお伺いいたしていますが、私としては穴が第二坑と思われる穴よりも非常に小さいので無理ではないかと考えています。

写真<2005年撮影>
 井戸のような構造物を真上からのぞいてみました。底の方には海面らしき光景が見えています。
 昔の写真には、この場所の直ぐ近くにも煙突が写っていますので、そこにあったボイラーに海水を供給するための「取水口」ではないかと思っていますが如何でしょうか?。


写真<2010年撮影>
 井戸のような構造物がある高台(②の場所)を野母崎側から見る光景です。黄色のマルで示した場所には、海底送電線だったと思われるが電線が壁面に潜り込む場所やその場所から高台に向かった方向に電線を埋め込んでいるような痕跡があります。
 ちなみに、海底送電線だったと思われるが電線が高台に向かうような痕跡は、この高台の反対側(高島側)にもあります。


写真<2005年撮影>
 黄色のマルの部分の拡大写真です。赤色の矢印の先が電線が壁面に潜り込む場所で、黄色の矢印の先が電線を埋め込んでいるような痕跡の場所です。ちなみに、この写真はこちらの写真の部分拡大になります。


写真<2010年撮影>
 電線が壁面に潜り込む場所の拡大で、赤色の矢印の先がその場所になります。
写真<2018年撮影>
 電線が壁面に潜り込んでいます。


写真
<2005年撮影>
 写真左端には井戸のような構造物がある高台(②の場所)がほんの少し見えていて、その右側に少し離れて、若干低い高台(③の場所)があります。
 若干低い高台(③の場所)の上部も、井戸のような構造物がある高台の上部と同様に、炭坑稼業時の地表部分だったと思われる箇所ですが、その構造としては、本来の地盤の上に天川と大きな石による基礎があり、その上には、煉瓦の欠片とコンクリートの混ぜ物が載っていて、一番上には、下段写真にあるように煉瓦が敷かれています。

写真
<2010年撮影>
 煉瓦の欠片とコンクリートの混ぜ物部分の拡大です。


写真<2010年撮影>
 上段写真に写る若干低い高台(③の場所)を、井戸のような構造物がある高台(②の場所)から撮影した光景です。
 炭坑稼業時の地表部分だった思われる箇所には、何とコンクリートの床の上に煉瓦が敷かれています。なお、煉瓦の上には大きな石が転がっていますが、この石は山から落石してきた石のようです。
 ちなみに、この場所の少し先には、かなり大きな穴を埋め戻していると思われる箇所が続きます。


写真
<2010年撮影>
 井戸のような構造物がある高台(②の場所)の直ぐ右側にある石垣です。何故か、井戸のような構造物がある高台の地表面よりも低い場所に位置しています。

写真<2010年撮影>
 若干低い高台(③の場所)の右側の光景です。こちらの石垣も低い場所に位置しています。


写真
<2010年撮影>
 登場順番としては逆になりますが、井戸のような構造物がある高台(②の場所)の左側にも石垣が存在しています。

写真<2010年撮影>
 若干低い高台(③の場所)から④の場所方向を望む光景です。かなりの距離がありますが、おそらくは、この間にも高台が構築されていたのではないかと思っています。


写真<2010年撮影>
 撮影の流れが元に戻ります。
 ⑤の場所から②、③の場所を望む光景です。井戸のような構造物がある高台(②の場所)が奥にあり、その手前には若干低い高台(③の場所)がありますが奥の高台より一段低くなっています。
 奥の高台は今でも基礎がしっかり残っていますが、手前の高台は基礎が崩れてなくなっているようなので、その分低くなっているのでしょか。
 なお、若干低い高台(③の場所)の手前には「コンクリートの細長い基礎」(⑤の場所)が見えています。



写真<2010年撮影>
 すぐ上の写真から少し引いての撮影で⑤の場所です。
 写真中段中程から写真左下に向かって、上段の写真にも写る「コンクリートの細長い基礎」が走っていますが、昭和37年完成の中ノ島公園が写っている航空写真(カラー)を見ますと、基礎があると思われる部分の一部には柵が設けられているようで、柵の内側には黒い色で楕円の形の箇所があります。この場所かどうかは確認できていませんが、島の先輩から、海沿いには水没した坑口が幾つか在ったことを伺っていますし、昭和22年撮影の航空写真を見ても穴らしき箇所が何か所か見えますので、もしかしたら、この箇所は中ノ島にあった竪坑跡の一つかも知れないと考えています。
 ちなみに、現在残る「コンクリートの細長い基礎」の箇所全てには柵は存在しないようで、柵ができたのは昭和37年よりもっと前で一部が壊れかけているのか、それとも設置工事の途中で全ての部分の柵が完成していないのかは分かっていません。


写真
<2010年撮影>
 すぐ上の写真の石が転がっている部分のほぼ全容を、すぐ隣(高島側)にある高台(⑥の場所)から撮影しました。
 石が転がっている部分の周りは岩盤や非常に大きな石に囲まれており、大きな穴といってもおかしくないのではないかと思っていて、私としては、昭和37年の中ノ島公園を造成する際等に、竪坑跡の大穴を石で塞いだ光景ではないかと考えています。


写真
<2010年撮影>
 上段写真の箇所を横から見た光景です。コンクリートの細長い基礎が写真左側と下側にあります。

写真<2005年撮影>
 写真上段右側に高島が見えています。
 こちらにも「コンクリートの細長い基礎」が写っていますが、上段写真の下側にある「コンクリートの細長い基礎」になり、上段写真よりも少し潮が満ちた時の光景です。


写真
<2010年撮影>
 ⑥の場所の光景です。明治時代の埋立箇所で、護岸がなくなり埋立箇所の側面が見えている光景かと思いますが如何でしょうか?。こちらも埋立箇所の上部には、煉瓦の欠片とコンクリートの混ぜ物が載っているようです。

写真<2010年撮影>
 左の高台の地表部分です。こちらにも煉瓦が敷かれています。

写真<2010年撮影>
 上写真の中央部分の拡大になります。地面は二段になっていて、それぞれの段に煉瓦が敷かれています。


写真
<2010年撮影>
 山肌には、茶色っぽい色の塊が付着しております。

写真<2005年撮影>
 中央に石垣による四角い構造物が写っています。


写真
<2005年撮影>
 上段右側写真の石垣による四角い構造物の拡大写真になりますが、石垣の中には壊れたコンクリートの壁が積まれています。理由は分かりませんが、昭和37年完成の中ノ島公園が写っている航空写真では、この場所に小さな建物が写っていますので、その建物の壁かと思っています。
 なお、その建物は明治のものではなく後年のもので、石垣による四角い構造物は明治のものと考えていますが、石垣による四角い構造物が、新立坑跡ではないかとのお話しをされる方もいらっしゃいます。


写真
<2005年撮影>
 この場所は何に使われていたのでしょうか。このように大量に煉瓦が積まれている箇所はここだけと思います。

写真
<2010年撮影>
 左写真の煉瓦構造物を真横から見た光景です。下から岩盤部分、石と天川の部分、煉瓦の破片とコンクリートの部分、煉瓦部分と重なっていますが、煉瓦の部分は壁ではなく床の部分なのに、かなりの段数、煉瓦を積み重ねています。ちなみに、私が知る限りですが、端島では煉瓦が一番上ではありませんが、旧第三竪坑巻座の床が似たような構造をしていると思います。


写真
《 柿田 清英 氏 撮影 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 以前、柿田さんに、拙HPの掲示版に投稿いただいた写真です。写真の中央付近に点線の四角形が書かれており、その中には、何個かの浮標が写っております。
 写真の説明には、「重りの石と紐と浮標を使用して陸から場所を確認できる様にしたものです。そこそこの深さがありましたので、石炭積み込みも出来たのではないかと想像しています。浮標の下には穴が3個ありました。」との記載がありました。


写真
<2010年撮影>
 もう少し先に行くと、このように大きな石が堆積した場所があります。

写真<2010年撮影>
 左写真と同じ場所で、高島に一番近い場所になるかと思います。なお、大きな石の他にも砂も堆積しております。


写真
<2010年撮影>
 この付近には、地表に埋められた電線が数多く露出しておりました。

写真<2010年撮影>
 煉瓦と煉瓦の繋がり部分が、永い歳月の波浪や風雨により、丸くなっておにぎりのような形となっています。


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