避けては通れまい?(歴史の確認)

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 私にとって端島は良い思い出の地ですが、「第二次世界大戦迄の過酷な労働・生活」により端島で大変な思いをなされた方もいらっしゃるかと思います。端島をメインとしたホームページを運営するにあたり、そのことを記載することは必要で、避けては通れないことと思いました。


写真
《南越名海難者無縁仏之碑》
端島(軍艦島)から約4km離れた長崎半島の野母崎付近にあり、戦争中、端島で働かされていた朝鮮半島出身者らが、海に飛び込んで逃走を図ったものの潮の流れで途中力尽き、海岸に打ち上げられていたのを供養している碑と言われています。

写真《同碑付近から望む端島》


 正確な情報の把握が必要と考えておりますが、以下に各種情報を記載させていただきます。

「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼が島」といわれた。離島炭坑はどこも「軍艦島」「監獄島」だったのである。
 昭和初期の恐慌が日中戦争で好況に転じ、軍需景気を謳歌した昭和14年は雨が少なかった。当時の発電は水力6割、残りが石炭による火力発電だった。水不足で水力発電量が半減し、火力発電所をフル運転したが、二割の供給削減となった。好景気で重労働の炭坑労働者は転職し、石炭増産をはかるにも炭坑労働者が不足した。
 政府は朝鮮農村から労働者を補充することにし、炭坑による募集を許可した。干害で苦しんでいた朝鮮南部の農民は1・2年契約で募集に応じた。やがて太平洋戦争に突入すると徴兵される坑夫が多く、労働力不足は激化し炭坑は追加募集するが、朝鮮半島でも軍需労働や「満州国」への出稼ぎで応募者は少なかった。
 そこで警察による「官斡旋」、次ぎに「徴用」を行い、母子家庭や貧農など弱い立場の青年から連行した。それでも足りなくなると、働ける男なら誰でも、家や田畑で捕まえて炭坑へ連行した。
<『図説 長崎県の歴史』河出書房新社(1996)p.223・224より>

高島炭坑ニ於テ内地人鑛夫ノ不足ヲ補充スルノ目的ヲ以テ九月朝鮮鑛夫ノ募集ヲ認可セラレ年末約百五十名ヲ使役ス
右ノ外鑛夫募集ハ大分縣、高知縣、香川縣、鳥取縣、宮崎縣、山口縣、長崎縣、廣島縣、島根縣、京都府、岡山縣、佐賀縣ニ及ビ募集出張三十八回ニ達セリ(内朝鮮二回)
<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十八』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十六年復刻、三九三九頁>の「社誌第二十四巻 大正六年」に記載の「九月二十一日 高島炭坑鮮人鑛夫募集認可外鑛夫募集」から

軍艦島の真実 −朝鮮人徴用工の検証−
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日韓請求権・経済協力協定 〔 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定 〕
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