百 間 ・ 仲 山 新 坑

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〔 百 間 〕

写真
《高島百間崎第三坑写真》
  <写真は長崎市立博物館所蔵、許可を得て掲載、二次利用禁止です。>

 写真下段には左下がりで木製?土台による斜面があり、レールが設置されているようですが、坑内への出入口でしょうか。
 なお、写真データの中に撮影日でしょうか、「明治28年3月13日」の記載があります。
 『三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、高島炭砿史、三菱鉱業セメント(株)、1989年、頁数496』を見ますと、明治28年に稼働している坑口は、第一坑(中山坑)と第二坑(百間崎坑)の二坑との記載がありました。


写真
<2006.10撮影>
 百万の書き方も百万の他に百間・百摩があるようです。 『高島炭砿史、頁数515・516』には、百間崎坑は、明治22年開坑で明治32年9月14日廃坑との記載があります。
 なお、敷地関係については、三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌第四巻』(財)東京大学出版会(昭和56年復刊)によりますと、明治30年 高島村字東百萬崎海面埋立地の登記が了した旨の記録もあります。

写真<2006.10撮影>
 赤いバスが停まっている箇所位から先が百万になるのでしょうか。
 なお、写真中央の白い看板の後ろに、下記のコンニャク煉瓦擁壁があります。


写真
<2006.10撮影>
 写真は、コンニャク煉瓦擁壁の説明板です。
 『前川雅夫、炭坑誌−長崎石炭史年表、葦書房、1990年、頁数93』によりますと、明治19年のこととして、「百間崎の坑木置場の埋立ボタより発火 坑木8万本、成木3,000本、家屋70余戸焼失  病気の坑夫らを使い溝を掘りボタ埋立地に注水し鎮火』の旨が書かれていますので、明治20年以前もそれなりの規模の場所だったのではないでしょうか。

写真<2006.10撮影>
 何枚かは抜け落ちているようです。また、崩落防止の為か、金網が設置されています。

写真<2009.04撮影>
 煉瓦の風化も進んでいるようです。


〔 仲 山 新 坑 〕

写真
<2006.10撮影>
 写真は、仲山新坑坑口跡の説明板です。なお、仲山新坑ではなく、中山坑の記録として、尾浜坑(明治7年開坑)が南洋井坑に接近して危険となり、その代坑として、明治22年に斜坑により開坑した記録が残っています。また、中山坑は、明治29年には新斜坑を卸し大型巻を設備するなどを行いましたが、明治38年6月19日に廃坑となるそうです。

写真<2006.10撮影>
 私の勘違いかも知れませんが、『高島炭砿史』では「高島新坑(昭和12年出炭開始)」として記載されています。昭和20年7月31日の空襲時に発電所が被害を受け動力休止の状態となり、全坑湧水が充満して廃坑となるようです。
 十年ほどの短い稼働期間だったみたいです。


写真
<2006.10撮影>
 地元の方でしたら、この写真で、大まかな配置はお分かり頂けるのでないかと思います。確か、写真左側の方に、捲座上屋があったように聞きます。なお、新坑が稼業していた頃は、写真に写るコンクリの建物は無かったかと思います。


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