高島神社・岩崎彌太郎之像・その他

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 高島神社 〕

写真<2016年撮影>
 2016年撮影の高島神社のお姿です。
 右の柱の付近に「高島神社縁起」が掲示されていますが、下段に写真と記載内容を掲載させていただきました。


写真
<高嶋神社縁起  元和九年(一六ニ三)

元和九年
(一六ニ三)
 当時、高島を統治していた佐賀藩主、鍋島勝茂候が、丸尾山頭に、(現在の権現山の水タンク設置場所)日向、高千穂より、埴安姫命を守護神として、分霊創設し、鷹巣権現と称した。
明治二十五年
(一八九ニ)
 氏子有志により、金松峠(現在の金松寺向いの丘)に新しく神社を建立、遷宮する。
昭和十年
(一九三五)
 砿業所は、下二子に、大正の初頭、斜坑開坑時に分祀していた通称「山の神」箱崎八幡社を高嶋神社に合祀、祭主となり、砿業所の創業記念日の四月三日に盛大な山神祭を催した。
昭和三十年
(一九五五)
 砿業所は現在地に新しく神社を造営、同時に瀬戸内海大三島の祭神、我国総氏神、大山祇神の分霊を奉戴し合祀する。
昭和三六年
(一九六一)
 県下の海神の祖、壱岐芦辺町の住吉神社より、分霊を奉戴し合祀する。
昭和六十三年
(一九八八)
 砿業所は、閉山に伴い神社の護持、祭事一切を、氏子有志に譲渡、現在に至る
平成二十六年四月 氏子総代会
 (二〇一四)
※高嶋神社掲示の「高嶋神社縁起」より  なお、「高嶋神社縁起」では大山祇神の「祇」の偏はネにて記載されていますが、環境依存文字であるため拙ホームページでは「祇」を使用しています。


<高島神社祭禮日>

 松尾謙治編集人『高島町文化史[高島町(平成7年改訂版)]』には、「昭和3年、今上天皇の御大禮を迎えるに際し、當村青年団の記念事業として、鳥居の各部を大修理し再建した。當神社の祭禮は1月15日に行うようになっていたが、炭坑事業の発展に伴って島中の守護神ばかりでなく礦山の守護神として祭られることとなった。従って、祭禮日も毎年3月15日、三菱社としての炭坑創業記念日に行われるように改められ十数年の間この日を祝祭日とし、全島を挙げて盛大なる祭典を催した。昭和の初期に至って、創業記念日を神武天皇祭と同様の4月3日に変更し、島内年中行事の一つとして祭禮を催している。」の記載があります。
 また、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日発行>には「1898年 明治31年3月15日 高島炭坑,創業記念日を設定。」(21頁)や「1935年 昭和10年 「山の神」を高島神社に合祀。 上二子山頂の通称「山の神」箱崎八幡社を高島神社に合祀。以後,祭礼を毎年4月3日 会社創業記念日に改められる。」(42頁)の記載があります。


<通称 「山の神」 箱崎八幡社>

 前出の<高嶋神社縁起  元和九年(一六ニ三)>には「下二子に、大正の初頭、斜坑開坑時に分祀していた通称「山の神」箱崎八幡社を高嶋神社に合祀」の記載があり、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日発行>では「上二子山頂の通称「山の神」箱崎八幡社を高島神社に合祀」の記載があります。
 ついては、その昔、通称「山の神」箱崎八幡社は上二子山頂に本社が建立され、二本の斜坑が設けられていた下二子に分祀がなされていたと考えますが如何でしょうか?。


〔 岩崎彌太郎之像 〕

写真
<2004年12月撮影>
 岩崎彌太郎氏の像です。船着場近くに有ります。

写真<2004年12月撮影>
 岩崎彌太郎と高島の関係の説明板です。


〔 そ  の  他 〕

写真《タイトル不明》
<出典:「寫眞週報」178号(昭和16年7月23日発行)>

 建物の壁には「高島協和」と、そして建物手前の看板には「大平原」と書かれているようです。
 ちなみに、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、305頁>には、「なお労働者団体はその後昭和7年に協和会に名称統一し」の記載があります。
写真《タイトル不明》
<出典:「寫眞週報」178号(昭和16年7月23日発行)>

 どこの階段かは不明ですが、端島ではなく、高島の階段ではないかなと思っています。


写真<ハンドルネーム 端島支所下っぱ用務員さん投稿写真>
 S36年~S40年初期の頃ではないかとの事で、二代目つや丸か、せい丸が高島で乗船客を降ろし、端島に向かってるところです。
 ちなみに、写真右端の沖合に写っている石炭運搬船ですが、もしかしたら、端島閉山の時に、最後に石炭積み出しに来た船ではないかと思いますが、如何でしょうか?。


写真<所有品>
 高島港には待合室(ターミナル)があり、いつの頃までか分かりませんが国鉄の切符も販売されていた時期があるようです。左の切符もその内の1枚のようで「野母商船 高島港から鳥栖ゆき 佐賀経由 2等 通用発売日共2日 650円 高島港駅発行」等の記載があります。もちろん、実際には高島に国鉄の線路は来ていませんでしたが、高島港駅なる組織があり高島港待合室(ターミナル)は高島港駅の業務も兼ねていたようです。
 ちなみに、<『高島町閉山記念誌 高島町の足跡』、長崎県高島町、平成16年12月、40頁>に掲載されている「高島港駅(昭和36年)」と題された写真には「国鉄連絡運輸 高島港駅 野母商船株式会社」と書かれた看板が写っていて、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日、140頁>には「昭和36年4月1日 高島港駅として開設。」の記事があり「3月23日付日本国有鉄道公示第90号,同日付で総裁達第127号で開設。」の記載があります。また、<『長崎県と国鉄 昭和36年10月』、国鉄西部支社長崎出張所、昭和37年1月20日印刷、96頁>の「(2)主要定期航路」には「航路 長崎・高島航路、区間 長崎~高島、会社名 野母商船、備考 国鉄と連絡運輸」の記載があります。


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