第一立坑

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○第一立坑の概略を以下に記しますが、開始時期についていろんな情報があるようです。

<『長崎県紀要』、第二回関西九州府県総合水産共進会長崎県協賛会、明治四十年、134・135頁>
・ 明治二十年に至り第一層上八尺炭層埰掘の目的を以て第一炭坑を島の東北部に開鑿し、漸く正式の工事を始めたり。
・ 同二十三年九月一日三菱の有に歸してより、諸般の改良を施し專ら從來の溜水排除に從事し、翌二十四年二月に至り掘進工事を開始せり。
・ 三十年二月第一坑内出火の爲め滿水せしを以て、第一層八尺炭層の採掘を中止し、
<高野江基太郎、『増訂再版日本炭礦誌』、明治四十四年、第二編92頁>
・ 明治廿年第一層上八尺炭層埰掘の目的を以て、第一竪坑を島の東北部に開鑿し、漸く正式の工事を始めたり。
・ 同二十三年九月一日當社の有に歸してより、諸般の改良を施し、專ら從來の溜水排除に從事し、翌廿四年二月に至り、掘進工事を開始せり、
・ 卅年二月第一坑内出火の爲滿水せしめたるにより、第一層八尺炭層の採掘を中止し、
<高浜尋常高等小学校編纂、『西彼杵郡高濱村郷土誌』、高浜尋常高等小学校、大正七年九月>
・ 明治十七年ニ至リ第一層上八尺炭層採掘ノ目的ヲ以テ第一竪坑ヲ島ノ東北部ニ開鑿シ漸次正式工事ヲ始メタリ
郷土誌で使用されている「十」の漢数字からは「27年」と読めるようですが、その後に明治23年の項目が続くことから、もっと早い時期が適切と思われ「17年」に訂正しました。
・ 明治廿三年九月一日三菱合資会社ノ有ニ帰シテヨリ諸般ノ改良ヲ施シ専ラ従来ノ溜水排除ニ従事シ翌廿四年二月ニ至リ掘進工事ヲ開始セリ
・ 三十年二月第一坑内出火ノ為メ満水セシメタルニヨリ第一層八尺炭層ノ採掘ヲ中止
<長崎史誌研究会、『高濱郷土誌 大正七年版復刻』、昭和43年、追録>
・ 明治十六年、深堀領主鍋島氏ニ依リ第一竪坑開鑿、創業ニ着手ス
・ 竪坑の深サ三十尺ニシテ上八尺層ナリ、位置ハ今ノ小学校ヨリ稍南三十間ノ所ニシテ、大正十年頃埋没ス
<三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント株式会社、昭和51年、712,713頁>
・ 開鑿開始年月 : 明治16年・ 開鑿完了年月 : 明治20年
・ 深さ : 44m・ 大きさ : 3.3×3.0 木枠
<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、193,207頁>
・ 試錐 : 明治19年3月・ 開削着手 : 明治19年7月・ 着炭 : 明治19年11月29日
・ 深さ : 36m・ 大きさ : 矩形(4.2m×3.6m)
・ 稼行炭層は上八尺層であった。明治30年3月、坑内火災を起こし、消火水没のため廃坑となり、以後閉山まで、上八尺層は昭和5年及び戦後の採炭を除き、採掘されることはなかった。
<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、116頁>
・ 渡辺は19年11月,島の北端に4か月をかけて立坑を開坑し,海浜に堅牢な石垣を築き,機械装置の場所に充て,別に東浜を堤防で囲って貯炭場を設けた。
<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 十九』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十六年復刊、一六一頁>
・ 明治三十年三月十三日 端島炭坑自然発火 端島炭坑々内自然発火、局部密閉消防ノ效無ク遂ニ全坑ヲ密閉セリ


○採炭のためではありませんが、第一竪坑は大正時代にも使用されていたようです。以下の記載を参照願います。
  • <三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十四』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二五七九~二五八〇頁>には「社誌第二十二巻 大正四年」として「高島炭坑暴風雨被害」のことが記載されており、その中には、「海岸ヨリ打上グル大波高クシテ海岸ノ職工社宅ハ勿論汽缶場ヲ越エテ一坑附近ニ落下スル海水多量ニシテ一坑口ニ打込ムモノト周囲ノ地中ニ浸入シテ竪坑四壁ヨリ落下スル水量多ク竪坑内蒸気管ヲ浸シ坑底喞筒ノ運転意ノ如クナラズ、蒸気ヲ集中シ一方防水工事ニ努メシモ其效無ク遂ニ坑底ニ水没スルニ至ル」や「端島一坑内埋没品代金貳千四百九拾壹圓」の記載があります。
  • <パシフィックコンサルタンツ(株)編集 長崎市経済局文化観光部文化財課及び総務局世界遺産推進室監修、『史跡 高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭坑跡) 保存管理計画書』、長崎市教育委員会、2015年9月、245頁>には「図3-24 端島炭坑跡第1竪坑 1918 「高島炭礦端島坑報告」 九州大学」の図面が掲載されていますが、1918年(大正7年)とされる図面には「㐧一竪坑口」の文字記載があり、矩形の断面を二分している竪坑口が描かれていますので、一旦の使用中止があったかどうかはわかりませんが、自然発火後も第一竪坑は使用されていたようです。(それとも火災現場のみの密閉でしょうか?。)
  • 『高浜村郷土誌 大正7年版復刻』にも、「位置ハ今ノ小学校ヨリ稍南三十間ノ所ニシテ、大正十年頃埋没ス」の記載がありますので、実際に第一竪坑の坑口が埋められたのは大正時代になってからのようです。なお、「今ノ小学校」とは先代の小学校校舎のようです。


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