<出典:「寫眞週報」178号(昭和16年7月23日発行)> 写真上部ですが、岩盤上の右側の建物は6号棟で、左側の構造物は貯水槽ではないかと思います。島の先輩のよりますと、貯水槽右端の貯水増よりも高い小さな部屋は、戦時中は「監視所」と呼ばれていたそうで、米軍飛行機の来襲を監視していたそうです。
また、岩礁の中腹ほどには道が見えていて、左に行った先には30号がありますが、道の左側半分はコンクリートによる塀で、右側半分は木の塀のようです。
ちなみに、<『主婦之友』、昭和11年10月号>には、30号棟から6号棟付近までの部分はできていると思われる記載がありますが、山道途中にあった変電施設?から65号棟までの部分は、下段に記載のとおり、昭和20年代中頃になるようです。
<写真は島の先輩より> 30号棟から少し65号棟方向に進んだ場所です。もう少し進むと、写真中段位の場所で、山道は分かれて、左側が6号棟付近に向かう道、右側が65号棟方面に向かう道となります。
<写真は島の先輩より> 65号棟方面に向かう道と6号棟付近への道の分岐点から、暫く6号棟付近に進んだ場所より、階段を見下ろした光景です。ちなみに、行進時の光景のようです。
<写真は島の先輩より> 30号棟から、65号棟方向に進んで、6号棟付近への分岐路を過ぎたあたりの場所となります。山道の先の方には、コンクリの建物(変電施設?)や配管が見えております。
<写真は島の先輩より> 左端写真のコンクリの建物の部分から、少し報国寮方向に進んだ部分となります。
先日、同級生のお母さんに教えていただきましたが、その昔(65号棟に住んで居た頃)、私はよく母に連れられて山道でゴザを引き、日向ぼっこをしていたそうです。でも、残念ながら、記憶には残っていないですね。
ちなみに、この写真の下段には、通路の横に平たい場所が写っていますが、くつろぐのにいい場所でした。
<写真は島の先輩より> 昭和20年代中頃の「炭の光」に、「時化の日の悩み解消!! 端島村道完成」なるタイトルの記事が掲載されていて、記事の中には、「貯炭場上の傾斜面を切り開いて此の程完成、去る五月二十日その開通式を挙行した。建設費四十五萬円(高浜村費)長さ二百メートル、幅一・四メートル報国寮ビルより三十号ビルに出る道路に連結されている。」の内容が書かれていますが、「報国寮ビルより三十号ビルに出る道路に連結されている。」の記載は、村道は、65号棟から30号棟までではなく、65号棟から変電施設?までのことを示しているのではないかと思います。
少しでも高い部分を、また、島の外海側と比べ、比較的波が穏やかな島の内海側を通ることで、時化の日に潮をかぶることが、かなり少なくなったのではないかと思います。
なお、この写真ですが、閉山時の3号棟が写っていませんので、この写真に写る山道は、完成したての頃の姿ではないかと思います。
ちなみに、第二竪坑櫓上の丸いものは写真の傷?のようです。
<写真は島の先輩より> こちらの写真も左写真同様、完成したての頃の姿ではないかと思います。安全のため、山道の崖下側には、地面に埋め込まれた丸太にロープのようなものを掛けた手摺が設けられていますが、、閉山の頃は、上の方の「2009年5月撮影写真」にあるようにコンクリート製の塀になってりました。
ちなみに、山道の左下には貯炭場付近からレールが延びてきています。また、写真下の広い場所に閉山の頃は温室があったかと思います。
なお、山道の緑化関係については、<『炭の光』、第186号、昭和41年6月18日>には「緑化はひろがる みどりなき島からみどりしたたる島へ」の記事があり、その中で、「山道に赤い花を染めている夾竹桃も、つい三、四年前までは、石ころと、乾いた土だけだった。失敗の理由を追うと、夏のカンカン日照りにやられる、手入れをいないということだった。そこで山道に撒水設備をつけ、施肥をしてやった。今、山道は端島一番の緑地帯だ。」の記載があり、山道の田んぼについては「長崎観光さん」がアップされている
「端島(軍艦島)記録映像 「続・島の四季」」の中に登場します。
<写真は島の先輩より>
山道の65号棟側始点(終点)の光景です。65号棟7階・4階・2階への各通路や温室が見えます。
ちなみに、山道から2階へ下りる階段ですが、かなり昔の島の写真にも写っているようです。