三菱長崎造船所

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

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《三菱長崎造船所の盛観(四) 造船臺及ガントリクレン》  <所有絵葉書>
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《三菱長崎造船所の盛観(三) 立神造船工塲ドックガントリクレンノ一部》  <所有絵葉書>


 
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《三菱長崎造船所の盛観(二) クレンシツプ鑄物工塲  機械工塲タルビン工塲ジヤイヤントクレン》  <所有絵葉書>
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《三菱長崎造船所の盛観(一) 事務所及造罐塲》  <所有絵葉書>


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《長崎三菱造船所第一ドック》  <所有絵葉書>
 立神の地には、まだ、ガントリークレーンの姿は見えないようです。
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《長崎三菱造船所第一船渠》  <所有絵葉書>
 立神の地に、ガントリークレーンの姿が少し?見えているようです。


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《No.2 Dock, Nagasaki》  <所有絵葉書>
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《長崎三菱造船所第三ドック  大正6.6.25日要塞司令部検閲済
  <所有絵葉書>


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  <所有絵葉書>
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《建造中ノ戦艦土佐 三菱造船株式会社長崎造船所建造》
  <所有絵葉書>


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《立神造船工場全景》
  <出典:日本地理風俗大系(新光社・昭和5年発行)>
 


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《(長崎名所) 三菱ガンドリグレン》  <所有絵葉書>
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《三菱長崎造船所立神工場ガントリークレーン
(高百七十尺長八百尺幅百十六尺》  <所有絵葉書>


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《長崎造船所大グレーン  昭和10.9.2日要塞司令部検閲済》  <所有絵葉書>
 長崎県文化財調査報告書第140集『長崎県の近代化遺産』長崎県教育委員会(平成10年)によりますと、この打重機は明治42年(1909)、英国から輸入し要目は高さ61m、ジブの長さ73m、打重能力150tと云われるとあります。凄い歴史を持つクレーンです。

写真《飽之浦造機工場》
<出典:日本地理風俗大系(新光社・昭和5年発行)>


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《長崎三菱造船所飽ノ浦工場》  <所有絵葉書>
 絵葉書的にはかなり古いものと思いますが、打重機が設置されておりますので、明治末以降の光景かと思います。
 また、1枚下の絵葉書と見比べますと、工場1階部分の形が違っているように思えます。

写真《長崎三菱造船所飽ノ浦グレン》
<所有絵葉書>


写真《長崎名所三菱造船所殉職者招魂碑  長崎要塞司令部検閲済》  <所有絵葉書>

写真《長崎名所)三菱長崎造船所殉職者招魂碑  長崎要塞司令部許可済)昭和十六年一月十一日再検閲済》  <所有絵葉書>

<『創業百年の長崎造船所』、三菱造船所(株)、昭和32年>には以下の記載があります。
「大正11年8月1日,土佐は従業員全員に見守られつつ曳船佐世保丸,眞名鶴丸,夕顔丸,雁丸,鴨丸に曳かれ,静かに長崎港をあとにした」(p.177)
「大正14年4月26日 廃艦土佐の前檣を海軍より譲受け,殉職者招魂碑の主柱として向島丘上に建立(全長126呎,径6呎)」(p.485)
「当所開所以来の殉職者の霊を祀る高さ126呎、直径6呎の招魂碑が当所内向島丘に聳えていた。大正14年4月ワシントン軍縮会議のため廃艦となった戦艦土佐の前檣を改造して建立されたもので,碑名は岩崎小彌太男爵の揮毫であったが戦時中撤去されて今は石碑にかわった.」(p.191)


写真《昭和49年度撮影》
<写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より>


〔 送 迎 船 〕


金比羅丸大正7年377トン定員1,500人外輪船
諏訪丸大正9年421トン定員1,500人当所建造340番船
金比羅丸昭和13年127トン 870番船
諏訪丸昭和13年127トン 871番船
門司丸 388トン 戦時体制となって従業員が急増のため、当時の鉄道省で昭和17年に関門海底トンネルが開通し遊休となっていた関門連絡船を借用。戦後、返却。
必勝昭和18年430トン 933番船 戦後は戦時色のある表現は使用が禁止され、第1女神丸に改名されるが、ほどなく旧の名称に戻る
報国昭和18年430トン 934番船 戦後は戦時色のある表現は使用が禁止され、第2女神丸に改名されるが、ほどなく旧の名称に戻る
至誠昭和19年  988番船 戦後は戦時色のある表現は使用が禁止され、第1新生丸に改名
誠忠昭和20年  990番船 戦後は戦時色のある表現は使用が禁止され、第2新生丸に改名
 上記の表は『長船150年史編纂委員会、創業150周年記念 長船よもやま話、三菱重工業株式会社長崎造船所、平成20年、頁数142・143』からの引用です。長崎造船所に通勤する方の足として、数多くの送迎船があったようです。子どもの頃、大波止桟橋で、黒い煙を出す船が着くと船から多くの方が降りてきた光景を思い出します。


〔 炭 車 製 作 〕

写真<出典:「石炭時報 第九巻第五號 (石炭鑛業聯合會・昭和9年5月発行)」(大牟田市石炭産業科学館蔵)>
 「三菱重工業株式会社長崎造船所」の炭車広告です。二種類の炭車の写真が掲載されております。広告にある二種類の炭車と閉山の頃の端島の炭車とを見比べると、あくまでも私の感想ですが、上段の炭車の方が端島の炭車に近いのではないかと思いました。

 ちなみに、<長船150年史編纂委員会、『創業150周年記念 長船よもやま話』、三菱重工業株式会社長崎造船所、平成19年、頁数154・155>には、炭車製造に関し以下の記載があります。
昭和5年に、鉄工場から出る大量の鉄残材の再利用にあたり、立神造船工作部の鉄工場の一部を作業場として、鋼製炭車の製作をはじめたこと。
溶接技術の向上により残材鋼小片をつなぎ合わせ、頑丈な鉄製炭車をしかも比較的安価に製作することができたこと。
試作品を三菱高島鉱業所で試してみたところ、好評で610台の受注があり、その後、九州、本州等販路を拡大していったこと。
終戦直前の一年を除いて、昭和32年まで毎年受注があり、製作総計は5万3千台を超え、機種も32種類を数えたこと。
造船の本業が忙しくなってからは、炭車製作は三菱下関造船所へと引き継がれたこと。
資源を無駄にしないという精神から「鋼製炭車」は生まれたが、当時の資料には「手すき工員に仕事を与える必要があった」とあり、不況期の人材の有効利用も考えられていたこと。


また、以下の関連情報もありました。
「三菱鉱業において鉄製炭車が本格的に使用されたのは昭和6年高島においてであり、当時、極度の不況に苦しんでいた長崎造船所にこれを製作させた。」
  以上、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、736頁>より
大正3年のこととして「鉄製炭車の導入とそれに伴うレールゲージの変更(20吋から24吋に切替)があった。」
  以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、264・265頁>より
昭和5年2月のこととして「木製炭車は消耗度並びに災害率が高く,昭和4年10月 長崎造船所で鉄製炭車が試作され,試験的に使用の結果好成績で,本格的に10台を購入し使用する。」
  以上、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日、40頁>より  一部字句を変更しています
昭和20年代最後の頃の「三菱長崎造船所」案内パンフレットと思われる資料において、工場配置図には「炭車工場」が記載され、製作品のページには「鋼製標準型炭車」の写真掲載があります。


 

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