シリーズ「旅する長崎学」

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「旅する長崎学」1号

フランシスコ・ザビエルが書いた数々の手紙には,日本布教のシナリオが簡潔に示されている。これを集約すると,日本での布教をいかに進めるべきか,その道筋が浮かび上がる。ザビエルが日本を去ったあと,宣教師たちがこれを受け継ぎ,実践していった。

「旅する長崎学」2号

「天正遣欧使節」と呼ばれる彼らは,かの地でなにを見,なにを日本に持ち帰り,「世界」にどんな影響を与えたのか。知っているようで知らない「天正の旅」が始まる。

「旅する長崎学」3号

1597年2月5日,長崎西坂の丘で日本人20人,外国人6人のキリシタンが十字架にかけられ処刑された。日本で最初の大殉教はなぜおきたのか。土佐浦戸海岸(高知市)に漂着したスペイン船が、殉教事件をひきおこすきっかけのひとつとなった。日本で最初の大殉教をひも解く。

「旅する長崎学」4号

プチジャン神父はその日のことをこう書き始めている。 ≪昨日の12時半頃,男女子どもを合わせた12名ないし15名の一団が,単なる好奇心とも思われないような様子で天主堂の門に立っていました。≫潜伏から250年。長崎で信徒が発見された日のできごとである。

「旅する長崎学」5号

日本は,1858年の安政の修好通商条約の調印によって開港した。徳川家康が禁教令を出してから245年という時を経て,1859年,キリスト教の宣教師たちが日本の土を踏んだ。 プロテスタント教会は初めての宣教を,カトリック教会は再宣教をスタートさせたのである。その一歩は,長崎からプロテスタント宣教師たちによって,はじまった。

「旅する長崎学」6号

2018年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は世界文化遺産に登録されました。 1549年,フランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教。長崎は「日本の小ローマ」とよばれるほどキリシタン文化が栄えましたが,禁教政策によって迫害や殉教がおこり,信徒たちは,250年以上もの長い間,潜伏して信仰を守り続けました。

「旅する長崎学」7号

大志を抱く青年は青雲の都「長崎」をめざした。鎖国時代、唯一西洋との交易が許される長崎は、異文化の華開く”世界の扉”だった。出島をとおして海外から入ってくる新しい知識や学術、文化。その受け皿としての役割を果たした長崎は、若者を吸引する力をもっていた。

「旅する長崎学」8号

見る者を震撼させる、圧倒的なスケール感。その完成度の高さに、思わずため息をついてしまう。建設から幾十年かが過ぎ、今に続く歴史のなかで果たした役割とともに、なお普遍的な魅力を失わず存在しつづけている。それが近代化の遺産である。

「旅する長崎学」9号

安政の開国により1859年(安政6),長崎港が開港され,長崎の町に外国人のための居留地がつくられた。長崎港を見下ろす南山手・東山手の丘には,事業の成功を夢見て,はるか海を渡りやってきた異国の商人たちの邸宅が次々に建てられていった。

「旅する長崎学」10号

明治時代、長崎は外国の旅客船や貨物船の寄港地として脚光を浴びた。蒸気船の燃料となる石炭を供給できる良好な港だったからである。石炭補給港として、また、乗組員たちの休養地として街が潤った時代だった。

「旅する長崎学」11号

朝鮮半島から邪馬台国へと続く「海の道」は,洋上の島 壱岐を通った。「魏志倭人伝」に登場する「一支国(いきこく)の中心地,原の辻。弥生時代,ここに誕生した交易都市は,やがて王都として発展していった。

「旅する長崎学」12号

島原の乱以降、江戸時代の日本は幕府の方針により、いわゆる「鎖国」政策を強化した。そのため海外に開かれた日本の窓口は、対馬、長崎、松前、薩摩(琉球)の四つに限られることとなる。対馬藩は、朝鮮との外交交渉や貿易の窓口であった。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって断絶した日本との国交回復に奔走し、友好の証である「朝鮮通信使」を迎える際の重要な役割を担って、朝鮮貿易における藩の立場を守った。

「旅する長崎学」13号

五島列島は、長崎県の海上・東シナ海に、北東から南西へ約80㎞(男女群島を含めると150㎞)に連なって浮かぶ。140あまりの島々から成り、人が住む島は30ほど。主な島をあげると北から順に、宇久島、小値賀島、中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島と並ぶ。

「旅する長崎学」14号

西海は日本有数の捕鯨基地だった。鯨組と呼ばれる鯨取りの集団が平戸周辺の島や壱岐、五島を拠点に活動。なかでも生月島の益富組は日本で最大規模を誇った。

「旅する長崎学」15号

多くの島々から成る島嶼国日本。『古事記』は、わが国を大八洲(おおやしま)とし、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州で構成されるとした。”八”は8ではなく、”多くの”という意味であることは周知のことであろう。なかでも島が一番多いのは長崎県である。果たしていくつの島があるのか?

「旅する長崎学」16号

西川如見の『長崎夜話草(やわそう)』によれば、永禄5年(1562)、戸町浦(現・長崎市戸町・深堀あたり)に唐船が来航したという。通常長崎開港という場合、元亀2年(1571)にポルトガル船が来航し、長崎の町建てがはじまったことをいう。以後長崎はポルトガル貿易の町、キリシタンの町として栄えた。

「旅する長崎学」17号

「老朋友(ラオパンヨウ)」。中国では心を許せる古くからの友をこう言う。中国の人たちはいったん絆を結ぶと義理堅い。その絆は強く、後世にもなお引き継がれる。長崎と中国は古くから海を介して交流をつづけ、固い友情は海を越えた。その絆が現代の長崎の街に、人に、深く根付づいている。いま、先人たちの思いに心を寄せ、その足跡をたずねてみよう。

「旅する長崎学」18号

大名・国人領主が領地争奪戦をくり返していた戦国時代、道は武将らの行軍路であり、商人が行き交う流通ルートでもあった。平戸街道の場合、平戸松浦氏と相神浦松浦氏、大村市などとの抗争・戦乱が重なり、やがて近世街道として約62キロの道が整備され機能した。

「旅する長崎学」19号

江戸時代以前の島原半島の道は、国人領主から戦国大名に成長した有馬氏が佐賀・龍造寺氏らとの領地争奪戦におもむいた行軍路だった。江戸時代に入って承応・明暦期(1652~58)ころ、半島を一周する約110キロの道が整備されると、島原街道は多様性をみせはじめる。

「旅する長崎学」20号

全国に張り巡らされた街道のなかで、長崎街道は異国文化を伝達する道として特異な機能を果たしました。徳川幕府の直轄地である長崎へは江戸から長崎奉行が赴任してきます。その行列は大名の参勤交代さながらに、威風堂々たるものだったといわれています。

「旅する長崎学」21号

二十六聖人が歩いたことでも知られる時津街道。この街道に続く海上の道として大村湾の海路が利用されました。多良越えルートは、長崎警備を担当した佐賀藩の殿様や藩士らが利用しました。このルートは途中、有明海沿いに竹崎へと街道に分かれます。長崎からの脇往還としては、田上峠を越えて茂木へ続く茂木街道や、脇岬の観音寺へ続く参詣ルートのみさき道が知られています。