「旅する長崎学」【2】

キリシタン文化Ⅱ

「天正遣欧使節」と呼ばれる彼らは,かの地でなにを見,なにを日本に持ち帰り,「世界」にどんな影響を与えたのか。知っているようで知らない「天正の旅」が始まる。

表紙

南蛮船が碇泊する長崎港
1582年,使節の出発地 長崎は,ポルトガル人が世界一すばらしいと評する貿易港として賑わっていた。当時は,現在の諏訪神社下から長崎県庁にむかって長い岬が海にとびだし,その岬の先端に,イエズス会の教会が建っていた。その下の波うちぎわには小船が接岸し,長崎湾の真ん中に碇泊する南蛮船との間を行き来していた。

母の涙が光る命をかけた旅立ち

船出の日,港では乗組員や商人たちが出航のためにあわただしく働き,見送りの人たちのなかに,四少年の母もいた。そのひとり千々石ミゲルの母は,わが子の旅立ちに反対するあまり体をこわしていたという。生還率50%以下という大航海時代,ミゲルの母が2度と会えないという思いをつのらせたのは無理のないことだった。巡察使ヴァリニャーノは,母たちに「かならず無事に4人とも日本に連れて帰る」ことを約束した。こうして四少年を乗せた船は,冬の大海原に向けて,晴れわたった長崎の海を静かに漕ぎ出していった。

(「旅する長崎学」【2】より)