信徒発見

「旅する長崎学」【4】

キリシタン文化Ⅳ

プチジャン神父はその日のことをこう書き始めている。
≪昨日の12時半頃,男女子どもを合わせた12名ないし15名の一団が,単なる好奇心とも思われないような様子で天主堂の門に立っていました。≫
潜伏から250年。長崎で信徒が発見された日のできごとである。

表紙

「浦上四番崩れ」発端
浦上村山里に潜伏していたキリシタンは,宣教師と接触して公然とキリシタン信仰を表明するようになった。1867年,浦上村山里本原郷の茂吉が死んだとき,檀那寺(だんなでら)の聖徳寺の僧侶の立ち合いなしに自分たちで埋葬する事件が起き,聖徳寺が庄屋に訴えて問題になったが,その最中にも僧侶を断り肉親の自葬をする者があらわれた。その後も自葬は続いた。浦上村山里4郷の総代は庄屋に檀那寺との関係を断つことを申しで,村の住民は寺請制度にしたがわない旨書かれた書付を提出した。このことは,信仰の自由を認めてほしいがためであったが,結果として,幕府の重要政策を否定することになった。この事件が信仰弾圧のきっかけとなり,「浦上四番崩れ」をまねくことになったのである。

「浦上四番崩れ」経緯

1867年7月,長崎奉行所のキリシタン取り締まりの手が秘密礼拝堂にのび,キリシタンとみなされた浦上村の人々68人が捕らえられた。牢内での厳しい拷問を受け21人が棄教を表明した。これに対して諸外国公使は宗教弾圧だと幕府に強く抗議した。幕府はキリシタンに拷問をおこなわないことと釈放を約束したが,その後も自葬による入牢者はあとを絶たず拷問は続いた。その結果,ほとんどの者が改宗をして釈放され,村に帰されたが,改宗の取り消しを庄屋に申し出る者が続出した。これが「浦上四番崩れ」のはじまりである。

(「旅する長崎学」【4】より)