日本最初の石板印刷の暦

「旅する長崎学」【5】

キリシタン文化Ⅴ

日本は,1858年の安政の修好通商条約の調印によって開港した。徳川家康が禁教令を出してから245年という時を経て,1859年,キリスト教の宣教師たちが日本の土を踏んだ。
プロテスタント教会は初めての宣教を,カトリック教会は再宣教をスタートさせたのである。その一歩は,長崎からプロテスタント宣教師たちによって,はじまった。

表紙 「自ら其国の宗法を念じ,礼拝堂を居留地之内に置も障りなし」

日本は,1853年のペリーひきいる艦隊の浦賀来航を機に,翌年,日米和親条約を結ぶ。1858年,ハリスと日米修好通商条約を結んだ。その後,オランダ,ロシア,イギリス,フランスと条約を結び,長崎以外の地をも開港して,門戸をひろげた。このとき,ハリスは交渉の草案の第8条に,「日本にある亜墨利加人自ら其国の宗法を念じ,礼拝堂を居留地之内に置も障りなく…」と提示し,日本はそれを認めた。その宗法とはキリスト教である。他国にも同じ条件を認めた。こうして,自国民の宗教生活の援助を名目にした宣教師たちの日本への上陸が可能になった。



布教のチャンスを待ちつづけた宣教師

プロテスタント教会では,ロンドン伝導会とアメリカン・ボード(アメリカ最初の外国伝導組織)が19世紀初頭から,中国において日本での宣教の機会をうかがっていた。1837年,日本人漂流民をのせているにもかかわらず,異国船打払いで追い払われたアメリカ商船のモリソン号にも宣教師たちが乗船していた。日米修好通商条約が結ばれた直後,禁教下の日本で宣教が可能かどうかを探るため,アメリカン・ボードのS.W.ウィリアムズとアメリカ監督教会(アメリカ聖公)のサイルが長崎を訪れ,停泊中のアメリカ海軍に従軍していた改革派教会のウッドと会談した。その結果,サイルらは,日本では将来的にアメリカ人による宣教が有利で,スタート地点は長崎が最適であると判断し,アメリカ人宣教師の派遣を要請した。

(「旅する長崎学」【5】より