御厨筋と平戸街道の追分

「旅する長崎学」【18】

歴史の道Ⅰ 平戸街道ウォーキング

大名・国人領主が領地争奪戦をくり返していた戦国時代、道は武将らの行軍路であり、商人が行き交う流通ルートでもあった。平戸街道の場合、平戸松浦氏と相神浦松浦氏、大村市などとの抗争・戦乱が重なり、やがて近世街道として約62キロの道が整備され機能した。

表紙

平戸街道と3つの脇往還

江戸幕府は寛永12年(1635)に参勤交代の制度を定め、大名に1年ごとの江戸住まいを義務づけました。平戸藩も江戸参勤の交通の便を図るため、明暦2年(1656)、街道の要所に人や馬を配備し、駅を設けます。その2年前の承応3年(1654)、平戸藩は幕府の命により長崎港の周囲に台場(砲台)を築き、外国船の侵入を取り締まる長崎警備役も担うようになりました。長崎勤番です。平戸街道は平戸藩の公務の道、いいかえれば、幕府に対する「忠誠の道」だったのです。
下方街道、唐津街道、波佐見往還はその脇往還です。平戸島を北から南に縦断する下方街道は、領民たちに霊山として崇められてきた志々伎山と安満岳に詣でるための道、いわば「祈りの道」でした。
早岐から三川内までの長崎県を通る唐津街道と、波佐見を中心に川棚と佐賀県の有田・伊万里 武雄をつなぐ波佐見往還は、「セラミック・ロード(陶磁器の道)」の出発点でした。海外へ輸出された三川内焼や波佐見焼が、馬の背に揺られて行き交った道です。

(「旅する長崎学」【18】より