武王の門を訪ねて(2011.9.11)

最近、一冊の小説が職場で話題になっている。
北方謙三の「武王の門」。

南北朝時代。
征西大将軍懐良親王が菊池武光とともに、九州を統一し、独立国家の建設を目指す。
20数年にわたる男の夢と友情のドラマだ。

まだ、全部読んでいないが、その臨場感あふれる物語に、かなり惹き込まれている。
今日は、小説の舞台である菊池市を散策することにした。

まずは、産さん滝へ。
国道387号を菊池渓谷方面へ進むと、重味地区が現れる。
グラウンドのところで、右折。
看板に従い、しばらく進むと着く。

道や駐車場が整備されているので、滝の近くまで、車で行くことが出来る。

産さん神社。

源為朝の妻子7人が祀られており、疱瘡やお産の神様として地域の信仰を集めている。

この河原の先が、滝壺となっている。

産さん滝。

古くから修験行者の霊場となっていたそうだ。
この滝は、小説にも出てくる。

場所は変わって、ここは菊池神社。

明治3年に造営された。
熊本を代表する桜の名所でもある。

資料館は、蜂の巣があるとのことで行けなかった。
多くの菊池一族の史料が展示されていて、大変面白い資料館なのだが・・・
蜂の巣であれば、取ってしまえば良いものを。

第14代菊池武士の墨染めの桜?
歌を詠んだのは寺小野の大円寺の桜のようだが、境内の木にも説明板が付いていた。

袖ふれし、花も昔を忘れずば、わが墨染を、あわれとは見よ

武士は、当主の座を武光に譲り、出家し旅に出た。
30年ぶりに菊池に戻った際に、上記の歌を詠んだそうだ。

菊池神社から移動し、雲上宮へ。

ここは、懐良親王や良成親王の御座所跡。

この周辺は、内裏尾という地名が付いている。
御在所に由来するのであろう。

菊池神社付近とともに、太宰府に征西府を移すまでの17年間、ここが本拠地であった。
守山城(雲上城)という山城が置かれていた。

場所が変わって、菊池の町中にある「将軍木」。
懐良親王の御手植えとのこと。

樹齢600年、16mの高さがある。

将軍木の前にある能舞台。

毎年10月13日、ここで御松囃子能が上演されるとのこと。

ちなみに、懐良親王は1383年に亡くなった。
陵墓は、八代古麓にある。

温泉街を抜けて、東福寺へ向かう。
ここは、笹乃家や菊池グランドホテルの前から続く築地井手。
加藤清正が築いたとのこと。

東福寺。

第15代菊池武光により、菊池五山の一つとして定められた。
938年の創建だが、本堂は1819年に再建された。

本堂は修理中であった。

本堂には、行基の作とされる千手観音立像が安置されているそうだが・・・
修理中のためか、本堂にはなかった。

境内には、菊池一族の墓所がある。

この上80mのところに、菊池武重の奥方の墓があるとのこと。
後醍醐天皇の側近である万里小路大納言の娘だが、戦死したと言われている。

東福寺の階段を下りていたら、田んぼの中に墓らしきものを発見。

これは、明らかに何かの歴史遺産に違いない。

菊池武重の墓だ。

13代菊池武重は、「箱根・竹之下の戦い」で千本槍を考案。
一族の団結のために、「菊池家憲(寄合衆内談の事)」を定めた。
また、大智禅師を迎え、聖護寺を建てた。

菊池家は初代則隆から始まり、24代武包まで続く。
よく知られてい人を紹介すると、まず、第10代菊池武房。
蒙古襲来絵詞に、その姿が描かれている。

第12代武時は、天皇の綸旨を受けて、九州探題を討ちに行ったが、戦死。
武重ら子供との別れの場となった「袖が浦の別れ」は、楠木正成のエピソードのモデルになったと言われる。

菊池武重の墓が、このように立派であることを知らなかった。
おそらく、観光地として捉えられていないのではないか。

そもそも菊池一族の歴史自体が、あまり知られていない。
「武王の門」のような小説から、菊池一族に光が当たるようになれば、大変素晴らしいのだが・・・
早急な映画化を期待したいところ。

菊池武重の墓から、東福寺を臨む。

この山の上に、奥方の墓がある。
お互いが見える場所にいたかったのだろうか・・・

築地横穴墳。

6〜7世紀の墳墓跡とのこと。
運動公園の入口にあった。

きくち観光物産館から菊池神社を臨む。
高台の一帯が、菊池神社。
かつては、山城だった。

春は、一面が桜の花に覆われて、大変美しい。

大迫力の菊池武光像。

第13代菊池武光は、征西将軍懐良親王を迎え、筑後川の戦いで勝利。
1363年、太宰府に征西府を移し、九州を統一した。
菊池一族の全盛期を支えた。

菊池温泉街にある正観寺。

第13代菊池武光が建立した寺だ。

菊池武光の墓所。

墓碑は、江戸時代に建てられた。

後ろの楠の大木が、武光の墓印だと言い伝えられてきた。

樹齢600年、樹高34mとのこと。

ここの境内に入ると、センサーが反応する。
治安対策であろうか・・・

あまり、感じが良いものではない。

菊池市中心部から竜門ダムへ向かう。
途中、孔子堂の跡を示す石碑を発見。

菊池氏は、第20代為邦、21代重朝の時代に文教に力を入れた。
特に、重朝は、隈部忠信とともに孔子堂を建て、京都から桂庵玄樹を招いた。
また、連歌の会を開き、その際に詠われた菊池万句が伝わっている。

しばらく県道133号線を進むと、竜門ダムが見えてきた。

巨大なダムの堤体。
こんなに大きなダムは見たことがない。
さすが、国直轄のダムだ。

ダムの周辺には、広大な土地が広がっている。
公園化されたところには、ヤギが飼われていた。

斑蛇口湖の碑。
ダム湖の名前である。


堤体の上を歩く。

すごく高い。
高すぎて、正直、実感が湧かない。

すごく遠くの景色まで見ることが出来る。
うっすらと熊本市内と思われる街並みが見えたような気がしたが、そこまで見えるだろうか・・・

天気が良いので、すごく気持ちが良い。

斑蛇口湖を臨む。

斑蛇口大橋が見える。

噴水があった。

噴水の勢いが増して、すごく高いところまで吹き上がっている。
うっすらと虹も現れた。

ここは、広々として開放感があって、すごく良い。

平成11年のくまもと未来国体の際に、ボート競技の会場になったとのこと。
この日も、多くの大学生が練習のために訪れていた。

もっと早いうちから知っていれば、頻繁に訪れたであろう。
十分、観光地になると思う。
お勧めの場所だ。

龍龍館(ろんろんかん)。
レストランや土産屋がある。
周辺には、店がないので、とても便利。

看板によると、宿泊もできるとのこと。

飼われていた豚ちゃん。
牙があったので、猪か??

とてもおとなしく、人間にも慣れている様子だった。

さて、今日行くかどうするか悩んだ聖護寺
道が狭いという話を聞いていたので、大変悩んだが、ここまで来たので、とりあえず行くことにした。

聖護寺は、大智禅師が開いた寺。
大智禅師は、不知火町の生まれ。
川尻町の大慈禅寺に入り、京都、鎌倉を経て、26歳のときに元へ渡った。
聖護寺の後、菊池武澄の勧めにより玉名の広福禅寺へ入り、その後、長崎県加津佐町の円通寺を開いた。
菊池武重を始めとする菊池一族の相談にのり、政治にも大きな影響を与えた。

禅の修行の場として知られ、世界各国から多くの人が禅の修行のために訪れるとのこと。
電気、ガス、水道、電話がつながっていないという。

この看板に気付かずに、上の写真で左側の道へ入ってしまった。
すごく狭い道をどんどん進んだが、落石や倒木などがあり、引き返した。
右側の道が正しかったようだ。

しかし、看板を見ると通行が出来ないとのこと。
聖護寺へ行く場合は、建設会社へ連絡するようにと書いてあった。
ここまで来たのに、残念。

道が狭いという話であったが、この分かれ道までは、自分にとっては普通クラスだった。
長崎県には、こんな道が多い。むしろ、離合する場所があるので、問題がないレベルであった。
ただし、ここから先は、どんな道なのかは分からない・・・

聖護寺、再度チャレンジする日が来るだろうか・・・

菊池市内へ戻ってきた。
聖護寺の疲れで、夫婦ともに車に酔ってしまった・・・

少し休んだ後、北宮阿蘇神社へ。

菊池一族御刀洗所、万病の神水と書かれた石碑が立っていた。
説明がなかったので、よく分からない。

菊池川。

北宮阿蘇神社。

1378年に、第16代菊池武政(または、第17代武朝)が菊池一族の郷社として創建した。
楼門は、創建そのままの姿を残しているという。

木造男女神坐像や征西将軍宮軍配扇が伝わっているとのこと。

菊池一族の歴史を知りたかったら、漫画を読むと良い。
「まんが風雲菊池一族〜今よみがえる白龍伝説」。
これは、絵も上手で、物語も分かりやすい。
きくち観光物産館などで、1050円で売られている。

菊池川に大きな木があり、神棚みたいなものが祀られていた。
あれは、何だったのだろうか・・・

地図によると、第19代菊池持朝の墓があるとあったので、探したが見つけきらなかった。
後で確認したら、光善寺にあるとのこと。

菊池市の観光史跡は、総じて案内標示が不親切。
墓所や神社は、観光地だとは思っていないのだろうか・・・

この北宮阿蘇神社周辺は、田んぼが広がり、大変長閑であった。
すっかり秋の景色。
長崎に帰る日が近いことを実感。寂しいものだ・・・

今日は、いろいろ回ったので、とても疲れた。
最後に、菊池氏発祥の地を巡ることにした。

田んぼの中に見えるのは、菊之池城跡の碑。

初代則隆以来、武光の時代まで、ここが菊池氏の居城であった。

続いては、初代則隆の墓。
墓碑は、1818年に建てられたもの。

初代則隆は、1070年に大宰府天満宮領赤星荘の荘官として、肥後菊池へ入った。
ここ菊池市深川に館を構え、菊池という地名を姓とした。

菊池氏発祥地の碑。
初代則隆の墓碑の裏手にある。

菊之池跡。

初代則隆は、藤原道隆を祖とする藤原姓であった。
この池の水に感動し、菊池と名乗るようになったとのこと。

しかし、現在、湧水は枯れてしまった。

国道387号沿いにある案内標柱。
今まで、気付かなかった。

今日は、小説「武王の門」にテーマを絞って観光をした。
聖護寺は残念だったが、玉祥寺にも第20代為邦、第21代重朝の墓がある。
実は、今回時間がなかったので、断念した。
全ての墓所を回ることは出来ないが、この2名の墓所は回っておきたかった。
いつか機会を作って、行くことにしよう。

今回、「武王の門」をテーマに観光をしてみたが、大変疲れた。
よく観光ルートを造成すれば、観光客が増えると勘違いしている連中がいる。
そういう連中は、今回のような観光をしているだろうか??おそらく、していないだろう。
自分がやらないことを、他人に主張すべきではない。
結局、観光というのは、観光客自体がよく勉強していないと、心から楽しむことは出来ないだろう。
予備知識なしに史跡を巡っても、何も分からないから、面白くないだろう。
観光業界としては、興味を抱かせる物語を発信していくことが大事だと思う。
それよりも、まずは自分自身が観光して回ること。それが大事。

TOP                     熊本TOP