最近、一冊の小説が職場で話題になっている。 北方謙三の「武王の門」。 |
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南北朝時代。 征西大将軍懐良親王が菊池武光とともに、九州を統一し、独立国家の建設を目指す。 20数年にわたる男の夢と友情のドラマだ。 |
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まだ、全部読んでいないが、その臨場感あふれる物語に、かなり惹き込まれている。 今日は、小説の舞台である菊池市を散策することにした。 |
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まずは、産さん滝へ。 国道387号を菊池渓谷方面へ進むと、重味地区が現れる。 グラウンドのところで、右折。 看板に従い、しばらく進むと着く。 道や駐車場が整備されているので、滝の近くまで、車で行くことが出来る。 |
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産さん神社。 源為朝の妻子7人が祀られており、疱瘡やお産の神様として地域の信仰を集めている。 |
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この河原の先が、滝壺となっている。 |
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産さん滝。 |
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古くから修験行者の霊場となっていたそうだ。 この滝は、小説にも出てくる。 |
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場所は変わって、ここは菊池神社。 |
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明治3年に造営された。 熊本を代表する桜の名所でもある。 資料館は、蜂の巣があるとのことで行けなかった。 多くの菊池一族の史料が展示されていて、大変面白い資料館なのだが・・・ 蜂の巣であれば、取ってしまえば良いものを。 |
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第14代菊池武士の墨染めの桜? 歌を詠んだのは寺小野の大円寺の桜のようだが、境内の木にも説明板が付いていた。 袖ふれし、花も昔を忘れずば、わが墨染を、あわれとは見よ 武士は、当主の座を武光に譲り、出家し旅に出た。 30年ぶりに菊池に戻った際に、上記の歌を詠んだそうだ。 |
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菊池神社から移動し、雲上宮へ。 |
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ここは、懐良親王や良成親王の御座所跡。 |
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この周辺は、内裏尾という地名が付いている。 御在所に由来するのであろう。 |
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菊池神社付近とともに、太宰府に征西府を移すまでの17年間、ここが本拠地であった。 守山城(雲上城)という山城が置かれていた。 |
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場所が変わって、菊池の町中にある「将軍木」。 懐良親王の御手植えとのこと。 樹齢600年、16mの高さがある。 |
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将軍木の前にある能舞台。 毎年10月13日、ここで御松囃子能が上演されるとのこと。 ちなみに、懐良親王は1383年に亡くなった。 陵墓は、八代古麓にある。 |
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温泉街を抜けて、東福寺へ向かう。 ここは、笹乃家や菊池グランドホテルの前から続く築地井手。 加藤清正が築いたとのこと。 |
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東福寺。 |
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第15代菊池武光により、菊池五山の一つとして定められた。 938年の創建だが、本堂は1819年に再建された。 |
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本堂は修理中であった。 |
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本堂には、行基の作とされる千手観音立像が安置されているそうだが・・・ 修理中のためか、本堂にはなかった。 |
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境内には、菊池一族の墓所がある。 |
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この上80mのところに、菊池武重の奥方の墓があるとのこと。 後醍醐天皇の側近である万里小路大納言の娘だが、戦死したと言われている。 |
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東福寺の階段を下りていたら、田んぼの中に墓らしきものを発見。 |
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これは、明らかに何かの歴史遺産に違いない。 |
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菊池武重の墓だ。 |
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13代菊池武重は、「箱根・竹之下の戦い」で千本槍を考案。 一族の団結のために、「菊池家憲(寄合衆内談の事)」を定めた。 また、大智禅師を迎え、聖護寺を建てた。 |
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菊池家は初代則隆から始まり、24代武包まで続く。 よく知られてい人を紹介すると、まず、第10代菊池武房。 蒙古襲来絵詞に、その姿が描かれている。 |
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第12代武時は、天皇の綸旨を受けて、九州探題を討ちに行ったが、戦死。 武重ら子供との別れの場となった「袖が浦の別れ」は、楠木正成のエピソードのモデルになったと言われる。 |
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菊池武重の墓が、このように立派であることを知らなかった。 おそらく、観光地として捉えられていないのではないか。 そもそも菊池一族の歴史自体が、あまり知られていない。 「武王の門」のような小説から、菊池一族に光が当たるようになれば、大変素晴らしいのだが・・・ 早急な映画化を期待したいところ。 |
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菊池武重の墓から、東福寺を臨む。 |
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この山の上に、奥方の墓がある。 お互いが見える場所にいたかったのだろうか・・・ |
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築地横穴墳。 6〜7世紀の墳墓跡とのこと。 運動公園の入口にあった。 |
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きくち観光物産館から菊池神社を臨む。 高台の一帯が、菊池神社。 かつては、山城だった。 春は、一面が桜の花に覆われて、大変美しい。 |
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大迫力の菊池武光像。 |
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第13代菊池武光は、征西将軍懐良親王を迎え、筑後川の戦いで勝利。 1363年、太宰府に征西府を移し、九州を統一した。 菊池一族の全盛期を支えた。 |
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菊池温泉街にある正観寺。 |
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第13代菊池武光が建立した寺だ。 |
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菊池武光の墓所。 |
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墓碑は、江戸時代に建てられた。 |
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後ろの楠の大木が、武光の墓印だと言い伝えられてきた。 |
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樹齢600年、樹高34mとのこと。 |
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ここの境内に入ると、センサーが反応する。 治安対策であろうか・・・ あまり、感じが良いものではない。 |
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菊池市中心部から竜門ダムへ向かう。 途中、孔子堂の跡を示す石碑を発見。 菊池氏は、第20代為邦、21代重朝の時代に文教に力を入れた。 特に、重朝は、隈部忠信とともに孔子堂を建て、京都から桂庵玄樹を招いた。 また、連歌の会を開き、その際に詠われた菊池万句が伝わっている。 |
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しばらく県道133号線を進むと、竜門ダムが見えてきた。 |
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巨大なダムの堤体。 こんなに大きなダムは見たことがない。 さすが、国直轄のダムだ。 |
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ダムの周辺には、広大な土地が広がっている。 公園化されたところには、ヤギが飼われていた。 |
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斑蛇口湖の碑。 ダム湖の名前である。 |
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堤体の上を歩く。 |
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すごく高い。 高すぎて、正直、実感が湧かない。 |
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すごく遠くの景色まで見ることが出来る。 うっすらと熊本市内と思われる街並みが見えたような気がしたが、そこまで見えるだろうか・・・ 天気が良いので、すごく気持ちが良い。 |
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斑蛇口湖を臨む。 |
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斑蛇口大橋が見える。 |
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噴水があった。 |
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噴水の勢いが増して、すごく高いところまで吹き上がっている。 うっすらと虹も現れた。 |
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ここは、広々として開放感があって、すごく良い。 平成11年のくまもと未来国体の際に、ボート競技の会場になったとのこと。 この日も、多くの大学生が練習のために訪れていた。 |
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もっと早いうちから知っていれば、頻繁に訪れたであろう。 十分、観光地になると思う。 お勧めの場所だ。 |
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龍龍館(ろんろんかん)。 レストランや土産屋がある。 周辺には、店がないので、とても便利。 看板によると、宿泊もできるとのこと。 |
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飼われていた豚ちゃん。 牙があったので、猪か?? とてもおとなしく、人間にも慣れている様子だった。 |
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さて、今日行くかどうするか悩んだ聖護寺。 道が狭いという話を聞いていたので、大変悩んだが、ここまで来たので、とりあえず行くことにした。 |
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聖護寺は、大智禅師が開いた寺。 大智禅師は、不知火町の生まれ。 川尻町の大慈禅寺に入り、京都、鎌倉を経て、26歳のときに元へ渡った。 聖護寺の後、菊池武澄の勧めにより玉名の広福禅寺へ入り、その後、長崎県加津佐町の円通寺を開いた。 菊池武重を始めとする菊池一族の相談にのり、政治にも大きな影響を与えた。 禅の修行の場として知られ、世界各国から多くの人が禅の修行のために訪れるとのこと。 電気、ガス、水道、電話がつながっていないという。 |
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この看板に気付かずに、上の写真で左側の道へ入ってしまった。 すごく狭い道をどんどん進んだが、落石や倒木などがあり、引き返した。 右側の道が正しかったようだ。 しかし、看板を見ると通行が出来ないとのこと。 聖護寺へ行く場合は、建設会社へ連絡するようにと書いてあった。 ここまで来たのに、残念。 道が狭いという話であったが、この分かれ道までは、自分にとっては普通クラスだった。 長崎県には、こんな道が多い。むしろ、離合する場所があるので、問題がないレベルであった。 ただし、ここから先は、どんな道なのかは分からない・・・ 聖護寺、再度チャレンジする日が来るだろうか・・・ |
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菊池市内へ戻ってきた。 聖護寺の疲れで、夫婦ともに車に酔ってしまった・・・ 少し休んだ後、北宮阿蘇神社へ。 |
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菊池一族御刀洗所、万病の神水と書かれた石碑が立っていた。 説明がなかったので、よく分からない。 |
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菊池川。 |
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北宮阿蘇神社。 |
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1378年に、第16代菊池武政(または、第17代武朝)が菊池一族の郷社として創建した。 楼門は、創建そのままの姿を残しているという。 |
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木造男女神坐像や征西将軍宮軍配扇が伝わっているとのこと。 |
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菊池一族の歴史を知りたかったら、漫画を読むと良い。 「まんが風雲菊池一族〜今よみがえる白龍伝説」。 これは、絵も上手で、物語も分かりやすい。 きくち観光物産館などで、1050円で売られている。 |
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菊池川に大きな木があり、神棚みたいなものが祀られていた。 あれは、何だったのだろうか・・・ 地図によると、第19代菊池持朝の墓があるとあったので、探したが見つけきらなかった。 後で確認したら、光善寺にあるとのこと。 菊池市の観光史跡は、総じて案内標示が不親切。 墓所や神社は、観光地だとは思っていないのだろうか・・・ |
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この北宮阿蘇神社周辺は、田んぼが広がり、大変長閑であった。 すっかり秋の景色。 長崎に帰る日が近いことを実感。寂しいものだ・・・ |
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今日は、いろいろ回ったので、とても疲れた。 最後に、菊池氏発祥の地を巡ることにした。 田んぼの中に見えるのは、菊之池城跡の碑。 |
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初代則隆以来、武光の時代まで、ここが菊池氏の居城であった。 |
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続いては、初代則隆の墓。 墓碑は、1818年に建てられたもの。 |
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初代則隆は、1070年に大宰府天満宮領赤星荘の荘官として、肥後菊池へ入った。 ここ菊池市深川に館を構え、菊池という地名を姓とした。 |
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菊池氏発祥地の碑。 初代則隆の墓碑の裏手にある。 |
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菊之池跡。 |
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初代則隆は、藤原道隆を祖とする藤原姓であった。 この池の水に感動し、菊池と名乗るようになったとのこと。 しかし、現在、湧水は枯れてしまった。 |
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国道387号沿いにある案内標柱。 今まで、気付かなかった。 今日は、小説「武王の門」にテーマを絞って観光をした。 聖護寺は残念だったが、玉祥寺にも第20代為邦、第21代重朝の墓がある。 実は、今回時間がなかったので、断念した。 全ての墓所を回ることは出来ないが、この2名の墓所は回っておきたかった。 いつか機会を作って、行くことにしよう。 今回、「武王の門」をテーマに観光をしてみたが、大変疲れた。 よく観光ルートを造成すれば、観光客が増えると勘違いしている連中がいる。 そういう連中は、今回のような観光をしているだろうか??おそらく、していないだろう。 自分がやらないことを、他人に主張すべきではない。 結局、観光というのは、観光客自体がよく勉強していないと、心から楽しむことは出来ないだろう。 予備知識なしに史跡を巡っても、何も分からないから、面白くないだろう。 観光業界としては、興味を抱かせる物語を発信していくことが大事だと思う。 それよりも、まずは自分自身が観光して回ること。それが大事。 |