伊能忠敬『測量日記』
九月十八日
朝は曇天、午後より晴れ。五っ時頃(午前8時頃)長崎炉粕町を出立した。
惣一手で測る。昨日測ってあったので一里余り(約4q)は測らずに行く。彼杵郡大村領浦上北村。昨日打ち止めより時津街道を測る。浦上北村本村。人家が散在していて字はない。只、西又は東という。右に口留番所(現在の若葉町電停のガソリンスタンド付近か)。字東(明治の地図には東北とある)。字西(西北町)。字中通(住吉商店街)。右の岩に六地蔵と釈迦阿弥陀観音を彫刻している。枝岩屋、家数三十五軒。左に岩屋大権現一ノ華表(かひょう。鳥居のこと)前。八町(873m)ばかり引き込んだ岩屋岳の梺(ふもと)に本社がある。平宗川は巾六間(10.91m)。枝平宗。百姓茂一郎(高谷正蔵・別名茂一郎。この後、時津新茶屋を新築した)宅(滑石2丁目にあった高谷家跡)で小休止。
字百合畑(百合野)。村字内坂(打坂)。時津川(現在の打坂橋の所)巾三間(5.45m)。枝栗岩(継石。通称の鯖腐らかし岩の事と思われる)。字野田。十四、五町(1,600m位。町ではなく間の間違いか。十四、五間は26m位)引き込んだ左の山根にある。枝元村の内、字丸田。枝元村。時津本村。申(文化九年)十一月二十九日に残した時印(手分けの坂部一行が残した)へ繋げる。街道総測一里一十三町三十三間三尺五寸(5,406.52m)。
九っ時後(午後0時過ぎ)に時津村(西彼杵郡時津町元村郷)に着く。止宿は本陣が庄屋の松尾七左衛門宅(現在の元村郷の法務局の裏)。別宿は福嶋屋茂一郎宅(旅籠か)。長崎より江戸からの書状が届く。この夜少し星を観測する。
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