伊能忠敬の略歴

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一、商人としての半生

 忠敬は延享二年(1745年)一月十一日、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の小関家の次男として生まれ、三治郎と名付けられた。

 父は武射郡小堤村神保家の利左衛門貞恒といい、小関家へ養子として迎えられていた。三治郎が7歳の時に母は病死し、その後数年は小関家で育てられたが、家を出ることとなり不遇な幼年時代を送ったという。この頃には常陸の国の寺で僧侶から算法を学び、後年の江戸での暦学・天文学・地理学への道へ進む礎となったようである。

  宝暦十二年(1762年)十二月、下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市)で米穀商と造り酒屋を営む伊能三郎右衛門家の入り婿となり、名を忠敬と改めた。これは林大学頭鳳谷が論語より名付けたもので、名乗書が重要文化財として残されている。

 妻の名は達といい、ふたりの間に長男・景敬(忠敬から家督を受け継ぐが、忠敬が長崎県の測量中に死去。妻はリテ)、長女・稲(夫に先立たれ、妙薫と名を改める。)次女・篠が生まれた。しかし達は42歳で死去。他に内妻との間に次男の敬慎(秀忠。後に忠敬の全国測量に参加し、桜井家へ養子となる。)三男・順治(早世)、三女の琴が生まれた。そして、後妻の信(桑原隆朝の娘)との間に四男の右衛門七が生まれている。その信にも先立たれている。

 もともと豪商であった伊能家の資産を順調に伸ばし、景敬に家督を譲る時は三万両ともいわれ、商業的才能を発揮した。そればかりでなく、飢饉や水害の時は窮民の救済にもあたり、37歳で名主になった。その後、領主の津田氏から苗字帯刀を許され、村方後見を命ぜられている。このように、忠敬は頭脳明晰で合理的な商才と、強力なリーダーシップを発揮した。

 忠敬の前半生は伊能家と地元民の為につくしたものであったが、心の底には、後半生の《この一歩》の時の為に、秘めたるものがあったに違いない。 それを示す資料が残されている。それは長崎県の対馬から娘妙薫宛の手紙の一節に書かれているので紹介したい。 「一、我等事、幼年より高名出世を好み候得共、親の命にて佐原へ養子となり候間、好る所の学問も止め、産業を第一とし、伊能家の先祖の格言を相守り、終には先規遺命の窮民も助け候間、功名遂て身退は天の道と、江戸表へ隠居に及候所、又々古今に無之日本国中測量御用被 仰付・・(後略)」とある。  このように、前半生が地域的名声であるのに比べ、後半生が偉大な事業であった為、歴史の教科書に名が残り、国の偉人として後世に残ることになった。
左の写真は千葉県香取市の伊能忠敬の店舗。
伊能忠敬記念館は以前は敷地内に建てられていたが、現在は撮影場所の後方に新築された。


 周辺は昔の佐原の雰囲気がよく遺されていて、あやめの咲く頃(六月)はとても美しい。
佐原公園にある伊能忠敬銅像
二、測量師としての半生

 忠敬は寛政六年(1794年)五十歳で長男の景敬に家督を譲り、江戸深川黒江町へ出て、19歳年下の幕府天文方の高橋至時の門弟となる。名前も隠居してからは伊能勘解由に改め、53歳で内妻の栄を迎えた。なかなかの才女であったそうだが、謎の多い女性でもある。
 寛政十二年(1800年)閏四月に蝦夷地(北海道)測量に出発することになるが、最初の目的は緯度1度の距離を測り、地球全体の大きさを求める為であった。その下準備として、歩測で深川から天文暦局を通り浅草寺を廻るコースを測量している。後の伊能図からすれば、未熟な測量図ではあるが、《この一歩から》の為の下準備ではあった。
 あまりの熱心さ故、推歩先生のあだ名まで付けられたといわれている。しかし、「江戸市中を計測するよりも遠距離の場所まで計測できれば、正確な緯度一度の距離が判明するのでは」という至時のアドバイスと、幕府への働きかけ(表向きは、ロシアが通商を求めて来ていたので、蝦夷地の地図作製とした)により、ようやく《この一歩から》へとたどり着けた。

 ■第一次の蝦夷測量は寛政十二年(1800年)閏四月江戸を出立。奥州街道を北上し、北海道の東の端にある西別まで、総勢六人、180日の測量日数であった。

 ■第二次は享和元年(1801年)四月に江戸を出立。三浦・伊豆半島から房総半島を廻り、東の海岸線を北上して下北半島、青森・三厩まで行き、奥州街道を南下している。総勢6人、測量日数230日であった。

 ■第三次測量は享和二年(1802年)六月に江戸出立。奥州街道を北上し青森から西の海岸線を南下、新潟・長岡・長野・高崎と廻り、江戸へ戻る。総勢7人。測量日数132日間であった。

 ■第四次測量は享和三年(1803年)二月に江戸出立。東海道を進み、静岡・名護屋・福井・金沢・富山・佐渡・長岡・高崎を通り、帰着。総勢8人、測量日数219日であった。
 文化元年(1804年)正月二日、師である高橋至時が死去。その子高橋景保(文政十一年・1828年のシーボルト事件で投獄され、翌年牢中で死去。判決も死罪であった)の手伝いの職となる。この第四次測量までは、ほとんど自費で測量したようなものであったが、東日本の沿岸地図を将軍徳川家斉に上呈したところ、幕府は仕上げられた地図を見て驚嘆した。そして次回からは幕府の直轄事業として進められていく。忠敬も幕臣となる。

 ■第五次測量は文化二年(1805年)二月に江戸出立。東海道を進み、紀州沿岸・瀬戸内海沿岸・山陰沿岸・琵琶湖・京都を測量し、江戸へ帰着。総勢20人(実人員17人)、測量日数219日であった。

 ■第六次測量は文化五年(1808年)一月に江戸出立。東海道を進み、大阪・淡路島・四国・大阪・奈良・吉野・伊勢・津を廻り文化六年(1809年)一月江戸へ帰着。総勢16人。

 ■第七次測量は文化六年(1809年)八月に江戸出立。高崎・諏訪・岐阜・山陽道を経て、九州東岸を進み、鹿児島へ。西岸を北上し、天草・熊本・竹田・九州を出て、未測量の街道を測量した後、文化八年(1811年)五月江戸帰着。総勢18人。

 ■第八次測量は文化八年(1811年)十一月出立。富士山周辺を測量後、測らずに西へ向かい、北九州内陸部を測量しながら鹿児島へ。前回測量出来なかった種子島・屋久島を測量し、九州内陸部を通り、小倉・博多・唐津・佐賀、そして長崎県へ有明海沿いに入り、島原半島・大村、ここで二手に大きく分かれ本隊はそのまま北上、支隊は西彼半島の大村湾沿岸を北上して佐世保で合流する。
 それから平戸島・北松・壱岐・対馬・五島・西彼半島の西海岸、長崎市中・長崎半島を測り、時津から二手に分かれて、佐賀県へ。
 九州を出て中国地方の未測量の内陸部を測量、飛騨方面の内陸部、飯山・熊谷を経て文化十一年(1814四年)五月江戸帰着。総勢19人。途中、長崎県の福江で信頼の厚かった坂部貞兵衛が病死。

 ■第九次測量は文化十二年(1815年)四月江戸出立。伊豆諸島・関東周辺を測量して文化十三年(1816年)四月江戸帰着。今回、忠敬は高齢の為参加しなかった。総勢11人。

 ■第十次測量は文化十二年と十三年の二回に分けて、江戸府内を測量。忠敬も参加。総勢は十一人と二回目は不明。

 ここに北海道の北半分を残し(この部分は間宮林蔵が測量し、繋げて最終上呈図となる)全測量を終わる。しかし、香取市のすぐ近くの霞ヶ浦は未測量のまま終わっている。  
 文政元年(1818年)四月十三日、忠敬は74歳で八丁堀亀島町で死去。遺言どおり、浅草源空寺にある高橋至時の眠る墓の隣に葬られた。
 文政四年(1821年)七月、『大日本沿海輿地全図』(計225枚)と『大日本沿海実測録』(14巻)が完成し、高橋作左衛門景保の序文をつけて幕府に上呈されるまで、忠敬の死去は公表されなかった。源空寺の墓地には、向かって右に忠敬の墓、その左に高橋至時の墓、少し離れて高橋景保の墓が並んでいる。
 忠敬は地図の完成を待たずに他界し、さぞ無念であったと思われる。球体である地球を、平面図に正確に描くという難問をかかえたままの死去であった。
 世界的にみると、間宮林蔵は間宮海峡として認知され、高橋作左衛門景保はシーボルトが密かに持ち帰って出版された『日本』の図録の地図の制作者として名前が残った。 『大日本沿海輿地全図』は明治になり陸地測量部の地図作製時のベースとなった。現在の国土地理院へと受け継がれていく。 忠敬の偉業については大谷亮吉氏の著書『伊能忠敬』や、明治の学校の教科書で偉人として紹介され、今日では渡邊一郎氏を中心とした伊能忠敬研究会が発会され、伊能ウオークで全国一周も行われた。
 最近、米国議会図書館で207枚もの大図が発見され、マスコミにも取り上げられる等、関心が高まっている。

参考資料・・・渡邊一郎著「伊能測量隊まかり通る」
        伊能忠敬研究会 編「忠敬と伊能図」
        川村 優著「日本地図に賭けた人生」