測量方法について

長崎県内の地図を使用して説明しています。

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■測量日記にでてくる用語
横切り
半島・岬・入江・島を測量する時に用いた方法である。下中央の図は壱岐市石田町の筒城崎の測量下図である。
『測量日記』に書かれているように、の地点に杭を残し、岬を横切っての地点に杭を打つ。再びの地点まで戻り、海岸線を測量して行き、の地点で測線を繋ぐ。測線が終結することにより、正確な測量となる。
【具体例】
三月十九日
晴天。同所に逗留して測る。石田郡筒城村字宮ノ浜に十七日に打ち止めたの印より初めて、沿海を順に測る。
の印迄六町三十九間(725.45m)。裏海へ横切りの印を残す。横に七十五間(136.36m)。
の印より初めて、筒城崎を回って横切ったの印に繋げる。十町十二間三尺五寸(1,113.79m)。・・・・・・後略
国土地理院 1/25,000 伊能忠敬記念館所蔵 伊能下図
 測線から出ている短い線は
梵天を立てた場所である。
松浦史料博物館蔵
 
伊能大図

片測・片打・半測
入江や島の片側半分を測量して終わること。残りの半分は測線が描かれていない。おおよその形を描くのみである。
【具体例】
二月七日
晴天で風。六っ頃(午前6時頃)に下方村紐指を出立した。
同村木ヶ津浦(木ヶ津町)の人家前より初めて、高崎鼻。江ノ浦の入江を片測二町九間(234.55m)。・・・・・後略
国土地理院 1/25,000
平戸市木ヶ津町の江ノ浦
松浦史料博物館蔵伊能大図
現在の地図と比べると、江ノ浦の入り口は切れずに繋がり、浦の奥行きを計測するのに浦の北半分だけで済ませていることが朱の測量線からわかる。これが片測である。スピードアップの為と思われる

交会法
この言葉も測量日記には出てこないが、導線法とともに重要な測量方法である。導線法のみでは、離れた場所と場所の相対的な位置関係にずれが生ずる。それを補正するために、遠くからでも目安となりやすい場所、つまり高い山や岬等を別の離れた地点から方位を測り、相対的な位置関係を正確なものにする。
松浦史料博物館蔵伊能小図
平戸島と上五島付近に多くの朱線が描かれている。

導線法
これは測量日記には出てこないが、昔から用いられた方法である。梵天竹を要所々々に立て、その距離を間縄で計測した。合わせて、方向についは杖先羅針を使用して、両地点から北からの角度を計測する。坂は小象限儀を使用して三角関数表により平面図での長さを計算していた。それらを記録して、測量の線を繋ぎ延ばす測量方法。すべて折衷尺を用いている。

梵天竹は根方三四寸(約10p)長さ二間一尺(3m94p)の竹の先に紙や木綿や鉋屑を巻き付けて使用した。

間縄は主に苧麻・藤・麻等を用いたが、水分による伸縮をなくす為に鉄鎖も用いるようになった。
長崎県では海岸線が長いので、耐水性にすぐれ、軽量な鯨のヒゲも用いていたことが宗家文庫の測量御用記録に書かれている。
近海で鯨の捕獲が行われていたので、手に入れやすかったからだと思われる。他に間竿も用いている。

伊能忠敬記念館所蔵

伊能図下図
諫早中心部


左が北。
目盛りのように見える線が梵天を立てた地点で、朱の点は測所の場所を示す。
現在の栄町アーケードの中になる。栄昌の追分けにの印が書かれている。
島原半島を一周し、長崎市矢上町から長崎街道を測量して繋がれることになる。


伊能忠敬記念館所蔵 麁絵図(巻紙)

長崎街道の鈴田峠付近が描かれている。
測量の際に下図とは別に風景画を描き、仕上げの時に参考にされた。
長崎県の分も含め、残っている麁絵図は少なく、貴重なものである。
上の図から栄昌・小松・鈴田村・岩松等の地名が読みとれる。

■天文測量について
 忠敬の測量隊は先触れにより、天文観測を行う場所、つまり測所を確保するよう知らせていた。
南北の見晴らしがよく、十坪程の場所が必要で、二間程の測量柱を立てるよう指示していた。
ほとんど毎日、天候さえ良ければ天文観測は行われた。それは現在位置の緯度を知る為である。
北極星等いくつかの恒星を計測する為に望遠鏡・象限儀を前述の測量柱に南北に固定して使用した。

 沿海実測録に記載された長崎市下の緯度は次のとおり。   長崎・炉粕町 三十二度四十五分