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2015年1月、ドルフィン桟橋の上から端島神社を望む光景です。神殿もどうにか、その形を保っており一安心です。 なお、神殿の屋根の右端の方には大きな鳥が留まっております。 |
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小中学校校舎の傷み具合もかなり進行しております。特に、増築階である、最上階の7階はかなりひどい状態です。 |
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7階中央部の屋根ですが、折れて?、落ち込むように垂れ下がっています。この数年は、目に見えて、屋根が曲がってきているのが分かるほど、傷み具合がひどくなっておりましが、昨年、遂に、このような状態となりました。
7階の左端です。こちらの屋根も、折れて?、落ち込むように垂れ下がっていますが、2013年にこのような状態となったようです。 なお、65号棟9階と小中学校7階の間が、薄い構造物で繋がっておりますが、避難通路の構造物の一部のようです。 | |
ドルフィン桟橋から島に渡ってトンネルをくぐる前の場所からの撮影です。以前は、岸壁が目隠しとなり、このように小中学校や65号棟を望むことはできませんでしたが、その岸壁も倒れていまい、直接、見えるようになっています。 ちなみに、写真左下に写っているのが、その岸壁で、閉山前にはこの岸壁の裏側には、切符売場と待合室が入った建物がありました。 また、このように崩壊が進むことで、子どもの頃には見ることができなかった地下の構造が見えるようになってきておりますが、狭い場所を少しでも有効に使おうとする先人のご苦労を感じます。 |
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3号棟と山道です。
山道の下にあった、ボタを島の反対側の海に投棄するためのベルトコンベアーの穴ですが、現在は塞がれています。 | |
貯水槽には、そんなに変化は感じられませんでした。
山道には、ネットが張られておりましたが、何のために設けられたのでしょうか。もしかしたら、山道の下付近で調査される方を護るためでしょうか?。 | |
大きな空間があったようです。
二坑の関連施設です。 | |
大好きな赤レンガの壁ですが、こちらも、見た目には変化は感じられませんでした。
赤レンガの手前、その昔は、第三竪坑の捲座機械が座っていた箇所と思われる部分の拡大です。中ノ島にもこれに似た床があると思いますが、第三竪坑の開坑が明治29年なので、こちらの方が中ノ島に似た床と記載すべきなのでしょうか?。 | |
鍛冶工場の建物です。
プールも健在?。ちなみに、ここに写っている護岸は、閉山の頃の護岸ではなく、後日、造り直されたものです。 |
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