○台風等被災 30・31号棟付近(昭和31年)の1
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<写真は島の先輩より> この写真、昭和31年の台風被災時の光景かどうかは不明ですが、違っていても、南部の護岸の様子が台風被災時の様子に似ていますので、そんなに遠くない時期の撮影かと思います。また、写真右下の護岸は、コンクリートではなく石垣ですので被災前の撮影と思います。
閉山間際の頃には、護岸の上には何もありませんでしたが、この頃は、丸太とロープによるものでしょうか、柵のような物が設けられています。
<高比良勝義氏(元島民)撮影>凄まじい自然の力です。
<高比良勝義氏(元島民)撮影>写真左上、南部海岸も崩壊しているのが見えます。
<高比良勝義氏(元島民)撮影>拡大版
《台風9号の爪痕
壊れた家屋や護岸の割石を片付ける人びと。》
| <写真は平成16年1月15日発行「端島(軍艦島)」より、高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
<写真は島の先輩より> この写真、被災時の写真かどうかは不明ですが、南部の護岸の様子を見ると、昭和31年台風被災時の護岸の様子と同じ様に思います。
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
<高比良勝義氏(元島民)撮影>昭和31年台風時に崩壊した護岸の被災状態?。
《昭和31年8月16日夜端島を襲った台風9号は、大正14年以来31年ぶりの大型台風といわれ、その被害は甚大でした。》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
<写真は島の先輩より> 写真中央には25号棟が写っています。25号棟には清風荘がありましたが、「昭和31年9月10日付け長崎民友新聞」の台風12号記事の中に、「西彼高島町役場では九日午後三時、端島全島がしぶきをかぶるほどの大波となつたので高島の四百七十世帯一千五百名、端島の百十五世帯四百五十名に対し緊急避難命令を出した。午後三時半、避難民は高島側が高島小学校に端島側が清風寮に避難を終り、炊出しを行つた。」との記載があります。清風寮と清風荘は同じものなのか悩んでおりましたら、島の先輩より、「同じかと思うが清風荘に115世帯450名は避難できないでしょう。」とのお話しを伺いました。清風寮は避難先の一つだったのでしょうか?。
なお、昭和十年代から二十年代半ばかけて端島に住んでいらっしゃった先輩からは、清風荘は、その昔には「〇〇寮」(〇〇は人の名前)と呼ばれていた旨のお話を伺っていますので、寮としての機能があった時代もあるのではないかと考えています。