○ボタ捨場

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〔 戦 前 〕

《長崎港外端島ノ景》  <所有絵葉書>
 写真右端が30号棟で、その左隣が25号棟です。まだ、閉山時にあった31号棟はありません。
 絵葉書左下には昭和館が見え、日給の18・19号棟が9階建てです。そして、24号棟があった場所には2階建ての建物があることを考えると、昭和10年前後の撮影になるのでしょうか?。


《長崎港外端島ノ景》の部分拡大
 上段絵葉書の右下部分の拡大です。写真の左下にはアーチ形に配置された石が見えますが、その内側は塞がれているようです。また、写真中央には、護岸の外側に木製の構造物が見えます。
 島のある先輩から、「昔、この近辺からボタを棄てていたようだ、表海岸からもボタを棄てていたようだ、閉山時の場所から棄てるようになったのは戦後ではないか。」との話しを伺ったことがありますので、もしかして木の構造物はボタ投棄のための設備かと思っていましたら、別の島の先輩からは、「硬捨場はこれより右側にあり、写真の構造物と硬捨場は関係ない。」とのお話を伺いました。


〔 戦後1 〕

<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 昭和31年台風被災の復旧時光景で、31号棟が出来る前で映画館から南部方向を望む光景です。
 写真中段に建物後ろから海(右側)へ延びている物が見えますが、ボタを海へ捨てるための運搬装置(ベルトコンベアー)です。
 また通路を歩いている人の先には、護岸復旧工事の足場が見えます。


《昭和32年1月27日時点》  <高比良勝義氏(元島民)撮影>
 ベルトコンベアーの状態が良く分かります。

《昭和32年3月3日時点》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 ベルトコンベアーは山の反対側からトンネルで通じていました。


《昭和32年3月31日時点》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 31号棟の基礎工事でしょうか??。



〔 戦後2 〕

 通常時は、海に投棄されたボタは波に流され溜まることはありませんでしたが、昭和40年前後の三ツ瀬区域への坑道掘削?時には発生した大量のボタが投棄されたため、ボタは波に流れることなく溜まることとなり護岸よりも高いボタ山ができることが予測されたため、ベルトコンベアーを斜めにして先端を数メートル嵩上げすることとなりました。


写真
<村里 榮 氏撮影>
 ベルトコンベアーを斜めにして先端を数メートル嵩上げした光景で、閉山の時まで使用されたベルトコンベアーになります。それまでは31号棟の2階部分のみを貫通した形でしたが、嵩上げのため、2・3階部分を貫通する形となりました。
 なお、<『毎日グラフ』、毎日新聞社、昭和40年3月21日発行、通巻784号、12・13頁>の島全体の写真に写るベルトコンベアーは、嵩上げされる前のベルトコンベアーのようです。


写真
<2011年撮影>
 嵩上げだけでは対策が不十分だったようで、ボタ山をブルドーザーで切り崩すことも行いましたが、その時には、島内から護岸を越えてボタ山までブルドーザーが行けるように、ベルトコンベアーの南部側に登坂路を設けました。

 左の写真は、端島に上陸観光ができるようになって、2011年に南部の見学所から31号棟と護岸の間を撮影した写真です。写真中央の赤い矢印の先にコンクリート壁がありますが、コンクリート壁と護岸の間に土を盛って登坂路を造っていました。

 ボタ山は本当に大きく、ボタ山の頂上付近はブルドーザーが作業できるかなりの平坦地がありました。ちなみに、三ツ瀬新坑の坑道掘削が終了?したらボタの投棄量も通常に戻りボタ山もなくなりました。ボタ山への登坂路には柵ができて人も登れなくなり、その内に登坂路は凸凹になったように思います。

 なお、<『毎日グラフ』、毎日新聞社、昭和40年3月21日発行、通巻784号、12・13頁>の島の全体写真では、大きなボタ山ではなく、できたばかりのような小さなボタ山が写っていますが、この壁の場所には壁を造るための木枠らしき物が見えていますので、昭和40年最初の頃には既に大きなボタ山となることが予測され工事を始めていたと思われます。


写真<2017年撮影・31号棟>
 ベルトコンベアーが嵩上げされる前ですが、ベルトコンベアーの31号棟貫通部分は2階の上半分ぐらいだけで、2階だけは貫通部分の天井が低いためそのままでは人が通行できないので、数段階段を下りて高さを確保した通路となっていました。(1階部分のスペースを使用していたと思います。)
 しかし、ベルトコンベアーの嵩上げを行う際は、高さを確保するため3階部分も貫通する必要が生じ、1軒の住居を廃止し貫通部分とし、結果、2階の上半分ぐらいと3階全体が貫通部分となりました。
 そのため3階は、昭和館側から住居(1軒)、ブロックで区切られた貫通部分、残りの住居となり、ベルトコンベアーの貫通部分で分断されたことにより、昭和館側から3階の貫通部分の先の住居に行く場合は、2階から横に移動し、一軒分位進んで、数段階段を下りて少し進み階段を上り元の高さに戻って、そこに設けられた小さな階段(改修時設置)にて3階の貫通部分の先の住居に行ってました。なお、分断された際には、昭和館側の1軒のみの住居部分は一戸建てみたいな感じになりうらやましく思った記憶が残っています。


写真<2017年撮影・31号棟ベルトコンベアー空間の拡大>
 写真中央の大きな空間がベルトコンベアー嵩上げ時に住居から貫通部分に改修された31号棟の3階部分で、昭和館側から2軒目の住居だった部分になります。
 また、その下の横に細長い四角の空間が2階部分です。(2階部分は護岸に隠れているのか、少ししか写っていないようです。)


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