○端島・攻撃される?
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《昭和20年6月11日にアメリカ海軍潜水艦「ティランテ」の魚雷攻撃を受け、石炭運搬船「白壽丸(3,600トン)」が被弾沈没。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年>には「始めは,戦闘機の攻撃を受け,続いて11時18分頃,突然米潜水艦が浮上し,折から荷役中の石炭運搬船「白壽丸」(3,600t)に魚雷攻撃,船は被弾して沈没,2発目の魚雷は岸壁に命中,攻撃を終えた潜水艦は悠々と浮上したまま三ツ瀬方面に去って行った。「その時の魚雷が31年9月17日発見され,海上自衛隊により引き揚げられる。」」の記載があります。
ちなみに、この写真に写る石炭積込桟橋ですが二基並んでいます。
《 各種情報 》
- 当時端島に住んでいた先輩
潜水艦からの1発目の魚雷は「ブイ」に命中、音の凄さに建物から外に出たら空が真っ黒で、空から物が降って来たので病院の庇に避難しました。その時は、浮流機雷の爆発かと思いました。
暫くし病院から出ると、2発目が白寿丸の船尾(機関室付近)に当たり、白寿丸は沈没し、米兵が手を振りながら潜水艦は三ツ瀬方向へ去っていきました。その時、野母崎の砲台から攻撃したが、潜水艦には届きませんでした。
- 島の先輩
1発目の魚雷が「白寿丸」に命中して、2発目が「ブイ」に命中し、その際はブイの破片が当時の2号棟の屋根にも飛んできたとのことです。また、当時、島に住んでいた父の話では、戦闘機による機銃掃射はなく、突然、魚雷の爆発音がしたとのことでした。
- <坂本勲著、『軍艦島攻撃さる』、「ら・めえる」第45号掲載、長崎ペンクラブ、平成14年11月1日発行>
ティランテ戦闘詳報よりとして、「魚雷発射、命中!、だが乗員が船尾の砲で反撃の素振り、それでもう一発発射、ところがこれが不発、続いて三発目を発射、これは命中!これにより目標は沈没。」との記載があります。
また、何時の頃からか、端島が軍艦に似ているからアメリカの潜水艦が間違えて攻撃したとの通説がまかり通っているが、アメリカ海軍の記録映画に今回の攻撃の映像があり、その映像は明らかに目標として白寿丸を捉えており潜水艦は端島を軍艦と間違えて攻撃したのではなく、当初から白寿丸を狙って攻撃した旨の記載もあります。
- <『聞き書き軍艦島』、朝日新聞社、昭和49年1月10日発行>
「潜水艦が400mばかり沖にプーと浮いて、野母崎の岬の方に行きよった。防衛隊の若い者5,6人、ハンマーでドラムカンをたたいておどしたとよ。石を投げる者のおった。当時は真剣ばい。」との記載があります。
- 島の先輩
昭和22年、端島で生活をはじめましたが、石炭積み込み桟橋まえの海で沈没石炭運搬船の撤去作業が盛んにおこなわれていました。
サルベージ船のほか潜水夫に手漕ぎポンプで空気を送る木造艀が作業中でした。
潜水夫が潜水病にかかってしまい、それを治すために海底に沈めたまま夜中中ポンプで空気を送っていました。手漕ぎポンプのカッタン・コットンとその音が島中に響いていました。急に浮上させると致命傷になるため少しずつ浮上させるそうです。
アメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没した船だと聞きました。
- <近代世界艦船事典The Encyclopedia of World ,Modern Warships.>
白寿丸の項をご覧下さい。船籍等や死亡者が出たことについて記載があります。
- <『婦人之友第三十巻第十號』、婦人之友社、昭和11年10月1日発行>
「端島は日露戦争の時ロシアの軍艦が日本の軍艦と間違へて砲撃したことがあるさうだ」との人の伝聞が記載されています。そのことが事実かどうかは知りませんが、事実でないにしても、そのような話しが似合う?島だと思います。
《 管理人記載 》
魚雷が石炭運搬船やブイに当たる順番については各種情報により相違がありますが、なにせ、半世紀以上も前のことを思い出していただき、お話いただいた情報もありますので、その点はご了承をお願いします。
なお、端島の不発弾情報については、冒頭の『高島町の歴史年表』に「その時の魚雷が31年9月17日発見され,海上自衛隊により引き揚げられる。」の記載がありますが、他の場所でも不発弾が発見されたことをお話しになる先輩もいらっしゃいます。