・ | 昭和5年に、鉄工場から出る大量の鉄残材の再利用にあたり、立神造船工作部の鉄工場の一部を作業場として、鋼製炭車の製作をはじめたこと。 | |
・ | 溶接技術の向上により残材鋼小片をつなぎ合わせ、頑丈な鉄製炭車をしかも比較的安価に製作することができたこと。 | |
・ | 試作品を三菱高島鉱業所で試してみたところ、好評で610台の受注があり、その後、九州、本州等販路を拡大していったこと。 | |
・ | 終戦直前の一年を除いて、昭和32年まで毎年受注があり、製作総計は5万3千台を超え、機種も32種類を数えたこと。 | |
・ | 造船の本業が忙しくなってからは、炭車製作は三菱下関造船所へと引き継がれたこと。 | |
・ | 資源を無駄にしないという精神から「鋼製炭車」は生まれたが、当時の資料には「手すき工員に仕事を与える必要があった」とあり、不況期の人材の有効利用も考えられていたこと。 |
・ | 「三菱鉱業において鉄製炭車が本格的に使用されたのは昭和6年高島においてであり、当時、極度の不況に苦しんでいた長崎造船所にこれを製作させた。」 以上、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、736頁>より | |
・ | 大正3年のこととして「鉄製炭車の導入とそれに伴うレールゲージの変更(20吋から24吋に切替)があった。」 以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、264・265頁>より | |
・ | 昭和5年2月のこととして「木製炭車は消耗度並びに災害率が高く,昭和4年10月 長崎造船所で鉄製炭車が試作され,試験的に使用の結果好成績で,本格的に10台を購入し使用する。」 以上、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日、40頁>より 一部字句を変更しています | |
・ | 昭和20年代最後の頃の「三菱長崎造船所」案内パンフレットと思われる資料において、工場配置図には「炭車工場」が記載され、製作品のページには「鋼製標準型炭車」の写真掲載があります。 |