平成20年5月18日。 今日は、諌早市高来町の和銅寺で開創1300年慶讃法要と、秘仏とされる本尊十一面観世音菩薩のご開帳がある。 諌早市図書館でポスターを見て、それ以来、心待ちにしていた。 正直なところ、和銅寺のことは、それまで全く知らなかった。 ここは、出発地となるJR湯江駅。 比較的大きい駅だが、閑散としている。 |
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駅前の風景。 並んでいる店は、多くが閉店している。 土産店もあったようで、かつては栄えていたのだろう。 |
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しばらく住宅街を歩くと、田園風景の中に和銅寺が見えてきた。 歩いていると、県外からの団体客を乗せたバスと何回もすれ違った。 宗教関係や法人関係など、さまざまだ。 |
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ここが和銅寺参道の入り口。 708年、元明天皇の勅願により行基菩薩が創建。 天皇の勅により和銅という元号を以て、法川山弘済院和銅寺の寺号を賜る。(慶讃法要配布資料より) |
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和銅寺の本尊は、行基菩薩作で「行基七観音」の一体と伝えられており、長崎県指定有形文化財に指定されている。 秘仏とされ、60年に一度開帳される。 今回は、和銅寺創建1300年と60年に1度のご開帳と重なる、極めて貴重な機会なのだ。 |
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境内に入ると、多くの人でごったがえしていた。 受付で記帳し、慶讃法要の資料を受け取る。 |
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本堂からは人が溢れ、入れなかった人が中を見ようと群れを成している。とても入る隙がない。 本堂から流れる慶讃法要や和銅寺の説明と、多くの参拝者の会話で、境内はとても賑やかだ。 |
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おそらく普段は、静かな寺なのだろう。 ご開帳には時間があるので、境内を散策することにした。 |
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龍造寺隆信の墓碑。 1584年、島原の有馬晴信を攻めた沖田畷の合戦で、龍造寺隆信は戦死する。 その遺体は、和銅寺で火葬された。 1869年、龍造寺四家の一つである諌早氏の当主諌早一学が龍造寺隆信の墓碑を建立した。それがこの墓碑だ。 (慶讃法要配布資料より) 戦国の世を駆け抜けた一代の猛将である龍造寺隆信。 悪名高い部分が傑出した武将であるが、龍造寺氏自体は、その後の鍋島氏との関係や武雄や多久、諌早での治世など、非常に興味深い。 龍造寺氏に関わる史跡は意外と多い。 龍造寺四家が治めた諌早市、多久市、武雄市、白石町に佐賀市を含めた広域的な連携により、龍造寺氏をテーマにした観光振興が出来ないだろうか。 あまり知られていないからこそ、新鮮な興味を惹くのではなかろうか。 |
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慶讃法要では、大勢の僧侶による読経が壮観だった。 また、法要の終盤には僧侶が参拝客のところへ向かい、参拝客の頭の上で経典を捲る動作をしながら、読経をしていた。 テレビでは見たことがあったが、直接目にすると、思わず手を合わせてしまった。すぐに影響されてしまうようで、俄かに信心が生まれた。 |
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いよいよご開帳の時間。 一斉に本堂に人が集まる。 |
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両脇に仁王さん。 かなり古そうだ。 額には、「円通」と書かれている。 どんな事態にも滞りなくとらわれることがなく自由自在に対応できること。融通無碍。仏、菩薩の悟りの境地をいう。 観世音菩薩のことを円通大士というそうだ。 隠元の弟子木庵の書である。 (慶讃法要配布資料より) |
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本堂の中は、撮影禁止。 もちろん秘仏の撮影も出来ない。 本堂の中は、参拝客でいっぱい。 人波を掻き分けて、ようやく念願の十一面観世音菩薩の前に。 厨子の中に、十一面観世音菩薩は安置されていた。 十一面観世音菩薩は色彩も残っており保存状態が良く、とても美しかった。 60年に一度しか見られないので、おそらく次の機会はない。 しっかり目に焼き付けておいた。 本堂の廊下に、真言宗と思われる僧侶の像があった。 由来は分からないが、インパクトが強かったので撮影した。 |
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十一面観世音菩薩の手から一本の紐が伸びている。 紐は本堂を抜けて、境内に立つ柱につながり、参拝者が触れることが出来る。 この慶讃法要には、若い女性が多く訪れていた。 説法の時に涙ぐんでいる人もいた。 悩み多き世の中なのだろう。 涙ぐむ女性は、意外と綺麗な人が多い。 観音様を前にしても、この手の煩悩は払えないようだ。 |
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この法要が終われば、また、静かなお寺に戻るのだろう。 極めて貴重な時間を過ごすことが出来た。 和銅寺は、JRの車窓から見ることが出来る。 湯江を通り過ぎる際の楽しみとなった。 こんなところに、1300年もの歴史がある寺があるとは。 まだ、知らないことが多い。 勉強あるのみ。 頑張って長生きして、60年後にまた来よう。 そのときは、95歳。 |