島構築・島姿 (鳥瞰図 ・ 図面等)

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〔 鳥瞰図 〕

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<出典:『婦人之友』、第三十巻 第十號、婦人之友社、昭和11年10月1日發行>
 タイトルは「全島鳥瞰圖」となっています。閉山時に56号棟があった部分には建物がなく平地の状態ですので、それ以前にその場所にあった建物(焼失時合宿で、その前は前々代学校校舎)が昭和10年秋に焼失した後の光景で、書籍の発行年からも昭和11年頃の光景ではないかと思います。なお、その際には神社も焼失しておりますが、神社の場所には建物が見えていますので、再建中か再建後のお姿と思います。貯炭場の方に目を移してみますと、石炭積込桟橋が旧型から最終型に代わっているうようで、小型の桟橋と合わせて3基の石炭積込桟橋が存在するようです。また、配炭機桟橋は旧型のままですが、その範囲は、後日、資材倉庫が建つ場所にも配炭機桟橋があり、貯炭場はかなりの広さのようです。あと気になる点としては、第二竪坑櫓の学校側には煙突のような構造物が見えますが、その昔、製塩工場にあった煙突ではないように思っています。また、前々代学校校舎のグランドとして使用されていた16号棟前には空地部分が残っているように思われることです。

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<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 構図的に『婦人之友』の構図とほぼ同じようですが、右下に書かれている「2597」の数字が年代特定のヒントになるかも知れません。ちなみに、後年65号棟横にあった大煙突付近に煙突が設けられているようです。


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《三菱高島礦業所-端島坑鳥瞰》
<前川雅夫 編著『炭坑誌-長崎県石炭史年表』葦書房(1990)より編著者及び発行所の許可を受け掲載>
 閉山時に隔離病棟があった付近の護岸がくぼんでいます。
 島の先輩によりますと、そのくぼみ部分には、階段状の「すべり」があり、その沖合に、夕顔丸、村雨丸が停泊して艀で連絡していたそうです。
 なお、『NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート、株式会社創元社、2015年、147頁』では、この写真と同じと思われる写真が「三菱高島砿業所1937年第2立坑完成記念ハガキ」として紹介されています。ちなみに、後年65号棟横にあった大煙突付近に設けられた煙突ですが、 大煙突と併存している時の写真 を見ますと、大煙突よりもかなり低かったように思われます。(大煙突がかなり高かった。)


〔 建物変革図 〕

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<図版8-28~8-33は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>


〔 端島坑外図 〕

 「一般財団法人 産業遺産国民会議」によるホームページ「軍艦島の真実 -朝鮮人徴用工の検証-」には「坑外図でみる端島の変遷」のページがあり、明治~閉山(昭和49年)~現況の坑外図が掲載されています。ご興味があられる方はご覧になられてはいかがでしょうか?。


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<出典:「長崎縣新誌」(昭和28年8月25日発行)>
 下の坑外図との主な相違点は、配炭機桟橋が第四立坑よりも学校側(閉山時は第四立坑まで)に延びています。また、配炭機桟橋の直ぐ下の線は、地下にあったベルトコンベアの線と思いますが、同様に第四立坑よりも学校側に延びています。もしかして、当時は第四立坑の学校側も貯炭場だったのでしょうか。


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<収蔵: 長崎歴史文化博物館>
 昭和20年代後半の頃でしょうか。上の図と違って配炭機桟橋や地下にあったベルトコンベアは第四立坑までとなっているようです。

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<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
 閉山間際と思います。


 <NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、94・95頁>には「■軍艦島建物配置図-1952年頃-」が掲載されていますが、手書きと思われる建物情報も記載されています。


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