想像・65号棟の建築過程

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 拙ホームページでは、基本として65号棟の病院側部分を北棟、学校側部分を東棟、新65号棟部分を南棟(新65号棟)の名称で記載しています。

〔 建設過程 〕

期 別内       容参 考 情 報
第1期
工事
・建設計画は昭和15年にすでに立てられていたが,実施に移されたのは昭和19年(1944),完成は昭和20年(1945)前半
・まず北棟が,地上7階,地下1階で建設されている.
第2期
工事
・昭和22年(1947)北棟の屋上に8,9階のかさあげ工事が行われ,地上9階,地下1階の建築になる.・昭和23年7月発行の「炭の光」では、建物が7階であることが書かれています。記事作成から発行までのタイムラグを考慮する必要があるかと思いますが、もしかしたら昭和23年も7階だった時期があるかも知れません。
第3期
工事
・昭和24年(1949)東棟が地上9階,地下1階で建設され,北棟と合わせてL字型のプランになる.東棟の6階迄が完成し7階は半分が出来ていると思われる写真の撮影年月日は昭和25年8月15日となっています。
・昭和26年7月発行の「炭の光」には、東棟9階建ての光景に7階以上が増築である旨の表示をした写真の記事があり、記事には「此程総工費二千万円の巨額を投じて65号の三十三戸、六八八面坪の増築が完成」の記載があります。(こちらも、記事作成から発行までのタイムラグを考慮する必要があるかと思います。)
第4期
工事
・昭和27年(1952)東棟の屋上に町立幼稚園・保育所が増築される.
第5期
工事
・昭和33年(1958)南棟が10階建てで建設され,65号棟全体がコの字型の」最終形態として完成する.
※期別及び内容は、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、656頁>より


〔 建物配置変化図 〕

写真
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載>
 「図版8-34 65号棟建設過程の建物配置変化図(Ⅰ)」です。北棟(昭和19年着工)の部分が空地となって着工直前の配置図と思います。
 ちなみに、閉山時に65号棟が建っていた周辺には、数多くの労務者社宅や浴場があったようです。



写真
《端島小学校並ニ稼働者住宅 長崎要塞司令部検閲済
  <所有絵葉書>

 まだ、北棟が建つ部分は空地ではありませんので、左上の配置図よりも、少し前の時期に撮影された絵葉書かと思います。
 ちなみに、絵葉書の右上にある大きな建物が先代の学校校舎です。


写真
<2013年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 上の絵葉書は、もっと日給側からの撮影かと思いますが、現在では南棟(新65号棟)がありますので、稼働者住宅だった部分を広く写すには、このような角度での撮影しかありませんでした。大きな建物に取り囲まれて昔の光景とは様変わりです。



写真
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載>
 「図版8-35 65号棟建設過程の建物配置変化図(Ⅱ)(昭和20年)」です。北棟ができていますが「(7階)」の記載があります。65号棟も日給同様に増築の積み重ねです。


写真
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載>
 「図版8-36 65号棟建設過程の建物配置変化図(Ⅲ)(昭和24年)」です。東棟ができてます。
 この図では、北棟と東棟の建物の境目に線が引かれていますが、北棟が9階建て、東棟が6階建てと、建物の高さに相違があるための線ではないかと思いますが如何でしょうか?。こちらの写真をご覧になると、線が引かれている箇所は北棟と東棟の境目の高さの違いが生じている箇所であるようです。


写真
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載>
 「図版8-37 65号棟建設過程の建物配置変化図(Ⅳ)(昭和27年)」です。上段の図の「北棟と東棟の建物の境目の線」がなくなっています。東棟も北棟と同じ9階建てとなり高さの相違がなくなって建物の境目がなくなった頃の図面ではないでしょうか?。


写真
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載>
 「図版8-38 65号棟建設過程の建物配置変化図(Ⅴ)(昭和33年)」です。南棟(新65号棟)ができて65号棟がもコの字型となっています。また、最終となる小中学校の校舎ができています。


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