三代目ドルフィン桟橋

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写真
《端島ドルフィン桟橋(第3回)落成式のテープカットをする長崎県佐藤知事と福崎町長。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>

写真《渡り初めをする3代夫婦。(昭和37年)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>


写真《端島ドルフィン桟橋(第三回)竣工落成式。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 昭和36年発行の「炭の光」には、「上陸桟橋今年中に完成 人工島による新方式」がタイトルの記事があり、「人工島が波高10メートル(前回台風時の最高予想波高)にたえるために、海底の岩盤を浅いところで4メートル、深いところでは6メートル掘りさげ、これに、がっしりとコンクリートを打ちこんで、万全を期することになっており、工事には四千立方メートル(セメント約4万5千袋、重さ約一万トン)という特殊なプレバクトコンクリート方法が採用されるという。総工費は前回の約二倍に相当するもので、その重点はやはり、基礎工事におかれており、かなりの難工事が予想されている。また、人工島に船が着岸できない時のために、吊りばしごを先端につけた補助桟橋が別に設けられ、サンパンで乗降りできる。」との記載があります。
 ちなみに、ドルフィン桟橋上には2基の門型の枠がありチェーンブロックの姿も見えていますが、奥の方(右側)にある枠に設けられた可動式桟橋で乗降りを行っていました。なお、この写真では、その手前(左側)にも門型の枠があり桟橋らしき物が見えていてますので、もしかしたらこれが補助桟橋の正体でしょうか。しかし、昭和40年代にはその姿はありませんでしたので、そんなに長くは設置されていなかったようです。


写真《昭和36年12月から野母商船「せい丸」「つや丸」が長崎←→高島←→端島間に就航(昭和38年頃)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>

 島に住んでいたときですが、海水が凄く綺麗で、ドルフィン桟橋から海底の姿を見たことが一度だけ有ります。砂利が綺麗に敷き詰められていました。
 なお、昭和37年5月発行の「炭の光」では、「岸ぺきからおよそ十二メートルの海面に、長さ二十五メートル、幅十二メートルの長円形人工島をきずき、そこに長さ十二メートル、幅二メートルの渡り桟橋が、水平にかかり、乗客は、これを渡って人工島まで行き、そこからさらに可動式桟橋(潮の干満によって上下動)を通って、乗船するという仕組みになっている。また、大きな風波のため、人工島に便船接岸が困難な場合を考えて、つりばしごを先端につけた補助桟橋が別にもうけられ、端島丸でも、乗降できるという二本立て仕組みになっており、欠航回数もいっそう緩和される。」等の記載があります。


 <『週刊朝日』、朝日新聞社、昭和37年4月27日発行、通巻2236号>に掲載されている島全体の航空カラー写真の中に、工事中の三代目ドルフィン桟橋が写っていますが、その姿は桟橋の北側と南側はかなりできているのに中間部分は海面と同じぐらいか少し低いぐらいまでしかできていないようで、大雑把に言えば、中央の部分が窪んでいる現在の上陸観光用のドルフィン桟橋に割と近い形ではないかと思います。また、二代目のつや丸かせい丸らしき船が学校海岸の沖合から出発したような航跡も写っていますので、二代目のつや丸かせい丸が完成した昭和36年12月からドルフィン桟橋が使用開始されるまでの間には野母船も学校海岸から艀を利用していた時期があったのではないかと思います。余計なことですが、私にも学校海岸から艀を利用して沖合に停泊している黒い船(おそらくは夕顔丸)に乗船した記憶があります。
 ちなみに、掲載紙の発行は昭和37年4月ですが、写真撮影から出版までの時間も必要で、また、同桟橋の完成も3月かと思いますので、写真は発行日よりも少し早い時期の撮影のように思います。


写真
《島への乗降は大変楽になり、流行のファッションで気軽に外出出来るようになりました。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>

 左右2枚の写真は、おそらく、3代目・ドルフィン桟橋の乗船風景


写真<村里 榮 氏撮影>
 野母船から見るドルフィン桟橋の光景です。船尾の方では2本のロープを使用し係船していましたが、そのロープの受け渡しをする方2名の姿が見えております。
 私の記憶違いの節はご容赦をお願いしたいのですが、船尾の2本のロープの内、最後尾のロープはドルフィン桟橋から渡すロープ(輪なし)で船尾にあった丸い機械でロープを巻いてました。また、ロープの始端はドルフィン桟橋ではなく島の護岸からでした。あと、後尾の機関室側のロープは船から渡すロープで、ロープの先に作った輪をドルフィン桟橋の係船柱にかけて船側では2本組の柱にロープを巻き付けていました。ちなみに、船首部はドルフィン桟橋から渡すロープ一本のみで、残念ながらロープの始端はドルフィン桟橋か島の護岸かは覚えていません。
 なお、ロープ本数はあくまでも通常時で荒天時には増えていたのかも知れません。


写真<村里 榮 氏撮影>
 ドルフィン桟橋のバックには、昭和40年代初め頃にできたと思われる「二号炭」の保管・積込設備が写っています。
 野母船の2階からドルフィン桟橋へ荷物を移していますが、手前の方は板を利用して荷物を滑らせています。ちなみに、潮の干満により野母船の2階も上下しますが、この時はドルフィン桟橋と野母船の2階の高さは割と近い状態のようです。

写真<村里 榮 氏撮影>
 ドルフィン桟橋から野母船に渡る橋がかなり斜めとなっておりますので干潮時の撮影でしょうか。このような状態となると上段写真に写る板を利用しての荷物の移動は不可能かと思いますので、荷物の移動にはかなりの力が必要だったかと思います。
 ちなみに、上段写真とこちらの写真に写る方の服装を見てみますと、上段写真の撮影時は夏場で、こちらの写真の撮影時は夏場でしょうか。


写真
<写真は島の先輩より>
 ドルフィン桟橋から、石炭積込桟橋方向の光景です。

写真<写真は島の先輩より>
 朝顔丸で、船首は南部を向いているようです。また、麦わら帽子をかぶっている方が見えますので夏の光景でしょうか。


写真
<村里 榮 氏撮影>
 ドルフィン桟橋への橋から、南部方向の光景かと思います。この付近には、クレーンが2台設置されておりました。

写真<写真は島の先輩より>
 連絡船からの南部方向の光景で、左写真と同じ場所の撮影になります。こちらも2隻の運搬船から荷揚げが行われております。


写真
<長崎県立長崎図書館所蔵の『高島町端島(軍艦島)昭和49年』から許可を頂き掲載>
 ドルフィン桟橋に渡る橋が架かっていた部分にあった広場?です。リヤカーの少し上の岸壁に何か記載があるようです。

写真<長崎県立長崎図書館所蔵の『高島町端島(軍艦島)昭和49年』から許可を頂き掲載>
左写真の拡大版です。勝手な管理人の想像ですが、

「想い出のかずかずを残して本日(四月二十日)端島を去ります。軍艦島サヨウナラ
一九七四年四月二十日」

と記載されているかと思います。あなた様にはどのように見えますでしょうか。


写真
<長崎県立長崎図書館所蔵の『高島町端島(軍艦島)昭和49年』から許可を頂き掲載>
 この写真も上段と同じ場所の光景と思います。上段写真の壁書きの前に人が立っているようです。なお、写真右下には鉄板の蓋が見えますが、その下には何があったのでしょうか。

写真
<長崎県立長崎図書館所蔵の『高島町端島(軍艦島)昭和49年』から許可を頂き掲載>
 どこの擁壁の照明灯でしょうか。船着場?、それにしては明かりが足りないような気がします。


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