幼稚園・保育所・保育園

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 端島保育園は、全国で一番高い場所(建物)にある保育園として有名でした。
 昭和28年5月に65号アパート(9階建)の屋上に、面積338.25㎡の保育園を建設し、同年より定員150人の高浜村立端島保育園として開園しました。
 昭和30年4月1日の高島町と高浜村端島の合併により、高島町立端島保育園となり、昭和49年1月の端島坑の閉山により廃止となりました。
 端島保育園は、室内に日本庭園を備える等、施設・設備がよく整備された保育園としても有名でした。
    <以上、高島町教育委員会発行の「端島(軍艦島)」(平成16年)より>

 入園者多数のためでしょうか、30年4月には面積87.12㎡の増築があっています。


 上記説明には「保育園」としての記載がありますが、端島における使用名称の変遷については以下のとおりとなるようです。

大正年間幼稚園「高島礦業所概要(大正15年10月)」記載参照「相知、高島の二十年」記載参照
昭和28年保育園「去る昭和二十七年十月二十五日着工した六十五号ビル屋上の端島保育園は、本年三月二十三日完工、四月二十二日、初の園児入園式を行つた同園は収容人員八十名の近代的なその建築様式を誇っているが、満3才以上、小学校入学前の児童による入園式の日にはなんと一九八名が入園し、現在、四名の保姆さんの優しい世話で楽しく日課に励んでいる」(炭の光(昭和28年)から)
昭和30年保育所「町村を廃し町を設置することについての申請書」記載参照
昭和33年保育所「高島町十年の歩み(町制施行10周年記念」高島町役場(昭和33年)」掲載写真参照
昭和45~48年保育所・保育園「町勢要覧(昭和48・51年)」記載参照

 まだ巡り合っていない資料があるかとは思いますが、「幼稚園」 → 「保育園」 → 「保育所」 → 「保育所・保育園」の流れとなるのでしょうか。


 65号棟屋上以前の歴史としては、昭和12(1937)年に20号棟の屋上に社立幼稚園として設立され、昭和24(1949)年に高浜村立端島幼稚園として再発足(泉福寺利用)、その後に65号棟屋上に移ったと思っていましたが、島の先輩方にお伺いしましたところ、昭和10年代中頃に、病院と木造校舎の職員室の間(小学校正門の護岸側)からお寺の方に移り、その後、20号棟に移った可能性が高いように思えました。以下、先輩方のお話です。(20号棟屋上の施設が幼稚園か保育所かについては発言のまま記載いたしております。)

昭和13年4月には、病院と木造校舎の職員室の間(小学校正門の護岸側)にありました。昭和12年は、木造の中央社宅(旧14号棟・5階建て)の解体に着手した時期であり、20号屋上は危険区域だったので、幼稚園建設は無理ではないか。泉福寺の利用開始についても、昭和17年頃で、昭和21年には確実に泉福寺を利用(理由:弟さんが通っていた。)していた。
病院と木造校舎の職員室の間(小学校正門の護岸側)から、お寺に移ったのは昭和14年ではないか。
20号棟の屋上に幼稚園があったのは昭和20年代の僅かな期間で、お寺から20号棟屋上に移り、間もなく65号棟屋上に移ったのではないか。
(昭和11年生まれの先輩から)自分はお寺の幼稚園に通った。20号棟屋上は戦後のことではなかろうか?。保育(所?、園?)だったと思う。
20号棟の屋上に幼稚園があったのは間違いない。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 子ども達の集合写真から、左上の部分を切り抜きましたが、「第七回保育紀念端島幼稚園」の文字が見えます。また、写真のタイトルには、「昭和三年」の文字がありましたので、幼稚園の設置は、大正時代まで遡れるようです。
 国立情報学研究所の「CiNii 論文 - 9080 大正・昭和初期の高島炭坑端島坑社宅街の変遷(社宅,建築歴史・意匠)」では、端島坑実習報文等の13点の図面が紹介されていますが、「図8 高島鉱業所端島坑外図(昭和3年10月)」では、先々代校舎の直ぐ近くぐらいの場所に「道場・幼稚園」の記載があります。また、大正15年10月の高島礦業所概要の「各島に幼稚園を設け児童は三島通して190名で布教師及び保母が教育に従事している」(※三島の名称の記載はありませんが、高島・二子島・端島と思います。)や「相知、高島の二十年」の記載からも幼稚園の設置は大正時代中頃まで遡れるようです。
 ちなみに、利用料金についてですが、『主婦の友・昭和31年3月号』[(株)主婦の友社]には「料金一律ではなく収入により比例」らしき記載がありました。


写真
<写真は島の先輩より>
 写真左端の建物が23号棟(泉福寺)で、お寺に幼稚園があった頃の光景ではないかとのことです。お寺から12号棟方面へ行く階段も見えています。
 お寺の前の広場(昭和24年に3階建ての24号棟が建つ場所)では園児や先生、関係者による記念撮影が行われているようです。
 島の先輩によりますと、広場はこども遊園地で、写真に写っている滑り台、シーソー、砂場以外にもブランコがあったとのことで、左後ろの建物はお寺の台所部分とのことでした。ちなみに、関係者のお話によりますと、写真の撮影時期は昭和17年頃ではないかとのことでした。


写真<写真は、「高島町十年の歩み(町制施行10周年記念」高島町役場(昭和33年)より>
 廊下が写っていますが、写真のタイトルは「端島保育所」となっています。
 ちなみに、「町村を廃し町を設置することについての申請書 (関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村)(昭和三十年二月十日)」では、高島には保育所と保育園が併記されていますが、端島には保育所(106坪)のみの記載となっています。

 ちなみに、廊下の左側ですが、建物入口のすぐ場所に、先生方のお部屋があったように覚えています。よく、呼び出されて怒られていた記憶があります。


写真<写真は島の先輩より>
 65号棟の屋上にある保育所の姿ですが、記念写真の時の光景のようです。
 保育所の建物の形を見ますと、昭和30年4月の増築前の光景のように思われますが如何でしょうか?。なお、先輩から聞いたことではなく、私の勝手な想像ですが、写真を見ますと、この時点では、まだ、プールは設けられていないように思います。


年次/年度端島保育所端島保育園備   考
児童数学級数児童数学級数
総数総数
昭和43年次1286959データは、「昭和48年高島町町勢要覧(昭和48年4月発行)」から
昭和44年次1136350
昭和45年次622834351718
昭和46年次582731321319
昭和47年度351520311219データは、「昭和51年高島町町勢要覧」から
昭和48年度291118241014
 ちなみに、昭和43年次~50年度の期間中(※参考資料が2冊に分かれていて、それぞれ年次と年度を使用しているためこのような記載を行っています。)における高島では、高島保育所、高島保育園(昭和48年度まで)、蛎瀬保育園(昭和49年度まで・児童館に転用)、さつき保育園(昭和43年まで)、高島幼稚園(昭和50年4月開園)の記載があり、昭和49年度までは保育所と保育園の併設だったものが、昭和50年度からは幼稚園と保育所の併設に代わっています。


写真
《リズムの勉強、いろんな所で発表もしました。》
<写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>

写真《屋内庭園、鯉や鮒や金魚は元気にしているかな!!》
<写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>


 

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