23号棟(泉福寺)

 概要 : 大正10(1921) 木造2階 社宅1階、寺院2階(泉福寺)
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真
《 三菱高島礦業所 端島坑社宅及布教所 》  <所有絵葉書>
 絵葉書左側の建物が社宅の8・12・13号棟で、右側の建物が後日の泉福寺となる布教所かと思います。なお、絵葉書の右端下には50号棟(昭和館)がほんの少しですが写っていますので、昭和になってからの撮影のようです。
 なお、布教所のものと思われる建築情報については以下の項目が確認できていますが、当該ページ冒頭の「大正10(1921)」との期日の違いが気になるところです。
  • 5月16日 端島布教場新設費追加(合計5,620) 3,200円
    以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十七』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3678頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 高島炭坑臨時起業費承認」>より
  • 布教場新設費 竣工年月日:大正6年12月30日打切 決算金額:6,614円58
    以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十七』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3774~3777頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 二子海岸石垣築造外竣工」の「端島ノ部」>より


写真<左写真は、長崎市高島町にある「端島模型」より>
 23号棟(泉福寺)の左下に50号棟(昭和館)、左に22号棟、左上に12号棟、そして右に24号棟と31号棟があります。ちなみに、こちらの側から見ると、23号棟の構造が1階部分は社宅で、2階部分が寺院(泉福寺)になる構造がお分かり易いのではないかと思います。


写真<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 写真左側にはお地蔵様の姿が見え、その右側にある建物入口付近には沢山の荷物が見えていますが、おそらくは、昭和31年の台風被災の際の避難者の荷物と思いますが如何でしょうか?。ちなみに、昭和49年2月14日付け朝日新聞掲載の「さらば軍艦島」によりますと、泉福寺、住職は昭和4年に三代目の『工場布教師』として兵庫県のお寺から来られたこと、昔はお寺は「説教場」という名だったこと、昭和28年から説教場は寺になったこと等の記載があります。
 ちなみに、「中の島」に建立されているお地蔵様の台座には、発起者名に続いて、「□□布教所 三代布教師」と泉福寺ご住職様と思しきお名前が刻まれています。(□□の部分はかなりの部分が剥がれていて判読不明ですが、おそらくは「端島」ではないかと思います。)


写真《長崎港外端島昭和館 昭和十六年一月十一日 長崎要塞司令部再検閲済 の絵葉書から右側部分を拡大しましたが、閉山時に21・22号棟が建っていた部分には、木造の建物が見えています。

 端島のお寺に関する由来については、大正二年に高島炭坑に転じ、その後、大正七年に三菱鑛業株式會社採炭課長となられた日下部義太郎氏が書かれた<「相知、高島の二十年」、『石炭時報』、第三巻第十一号、昭和三年十一月、30~36頁>にある「勞働者の思想善導」の項に、「丁度高島に赴任した時に端島に寺がないからとて社長のお世話で禪宗の僧侶が一人來てくれることになつたので、此の人を助けて自分の思想善導主義の實行をなし、後高島にも一人招聘して兒童を集めて幼稚園風のことをやつたり、日曜學校式のことをやつて兒童を善導し、婦人會、戸手會、一般會合などを盛に催して出來る限り自分もそれ等の席に列席して講和などをして僧侶を助けた。僧侶に對しては通佛教として一宗一派に偏しない様にして貰ひ」の記載があり、また、<筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、276頁>には、一九一六(大正五)として「12.27 三菱高島,各島で毎月1回団組長会・戸主会・母姉会を催すこととし,布教師に法教を講じさせて向上心の誘発をはかる.」の記載があります。
 ちなみに、島の幼稚園については、幼稚園・保育所・保育園をご覧願います。



〇23号棟(泉福寺)や寺院に関する各種情報です。
  • 「公民館(39号棟-昭和39年)が建てられる以前には畳敷きの本堂大広間で、子供会や婦人会などの集会にもよく使用されたようである」、「懸崖造の柱脚に接する従来の石積み擁壁は、島の埋立て拡張が行われる前の明治期の護岸と考えられるが、直接波浪にさらされた名残か積み石の風化や摩耗がはなはだしい」
    以上、<阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)p.657>より
  • 高島炭坑創業以降死亡者ニ対スル弔祭式ヲ十一月十六日端島布教場ニ於テ挙行
    以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十八』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、4013頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 十一月十六日 高島炭坑弔祭式挙行」>より


写真<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 21号棟(S29)や22号棟(S28)が建っていませんので、日給の屋上から、お寺やお寺の下にあった社宅部分を見ることができます。
 ちなみに、こちらの写真には、閉山間際の頃に、お寺の正面にあった広場の昭和館側にあった建物が写っていませんが、昭和20年代半ば頃と思われる島の地図では当該建物が描かれていますので、こちらの写真は昭和20年代半ば頃以前の光景となるようです。
 また、お寺の後ろの建物は、下段写真のそれと比べて建物の高さが低いように思えますので、閉山間際に火災で焼失する24号棟(3階建て・S24)が建つ前に存在していた建物(2階建て・取り壊し後、 一次、公園 となる)かと思います。そうしますと、映画館も写っていますので昭和2年頃から昭和10年代中頃の撮影ではないかと思います。


写真《昭和26年(1951)当時の日給社宅屋上より南部方面を眺めた風景》
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 前出の「お寺の正面にあった広場の昭和館側にあった建物」が見えていて、お寺の先には24号棟(3階建て・S24)の姿も見えています。

 なお、日給社宅の屋上ですが、この頃にはまだ階段塔屋や電気室はできていないようです。また、日給の下の方には足場が見えていますが、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、初版1984、647頁>に記載がある、昭和26年(1954)の「柱の巻立て」や「手摺の改造」の際の光景でしょうか?。


写真<出典:社会大観・第4号((株)世界文化社・昭和31年8月20日発行)>
 写真の右上にお寺が写っていますが、 2段上の写真 で記載した「お寺の正面にあった広場の昭和館側にあった建物」も見えています。
 また、泉福寺の階下部分にあった社宅の窓からは、洗濯物が干されていて生活感を感じますが、昭和20年代半ば頃と思われる島の地図に記載されている23号棟を示す枠内には「23号棟」ではなく「寺院 下 助手合宿」の記載があって、その頃のことかどうかは分かりませんが、島の先輩からは、社宅は女子のための住居であったように聞いていて、社宅部分は看護婦宿舎だったり、女性の交換手さん・小学校?幼稚園?の先生も住んでいたこともあるとのお話も伺っています。


写真
<写真は島の先輩より>
 写真右側中段に写る建物が23号棟ですが閉山後の光景のようです。なお、22号棟ですが、すぐ上の写真では見ることができませんが、こちらの写真では屋上に住居が増築されています。また、逆に、すぐ上の写真では、50号棟(昭和館)正面の壁には「SHOWAKAN」の文字がある壁が見えていますが、こちらの写真では見ることができません。

写真<写真は島の先輩より>
 写真右側がお寺になります。階段途中の右側には23号棟(泉福寺)階下にある社宅への出入口が見えていますが、お寺の24号棟側にも連絡通路があって、お寺から1階社宅部分を通って、31号棟入口にあったポスト付近に出ることができました。
 ちなみに、写真左側の建物が22号棟で、正面の建物は12号棟になります。


〔 閉山後の光景 〕

写真<2017年撮影>
 上段右側の建物が上風呂があった建物で、写真下段のたくさんの木材が落ちてる箇所がお寺があった場所になります。


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