プール

 最終のプール : 昭和33(1958) 25mプール、子供用プール
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

このページでは、
 ・先代の学校校舎横にあったプールを「先々代プール」
南部にあったプールのうち
 ・昭和27年に設けられたプールを「先代プール」、
 ・先代プールが昭和31年の台風にて破壊され昭和33年に復旧されたプールを「最終プール」
簡易的?なプールですが
 ・貯炭場横にあったプールを「臨時プール」
として記載しています。
また、65号棟屋上にあった保育所・保育園にもプールがありました。


〔 先々代プール(先代の学校校舎横) 〕



写真
《長崎港外端島プール 昭和十六年一月十一日
  長崎要塞司令部再検閲済
》  <所有絵葉書>

 昭和十六年再検閲済とあり、当初の検閲はこれより前になりますが、石炭積込桟橋の形を見ると、遡っても、昭和10年代前半の頃の撮影と思います。
 プールの周囲を見回しますと、まだ、資材倉庫は建設されておらず、学校海岸のクレーンも閉山の頃のクレーンとは違うようです。
 なお、その昔、学校グラウンドには土俵が設けられておりましたが、撮影の頃は設けられておらず、その後に設けられているようです。


写真
<2013年撮影>
  <長崎市の特別の許可を得て撮影>

 左上の絵葉書の頃と様子が一変しております。
 先代の校舎横にあったプールは、昭和20年代の最後頃まで使用されますが、その後、最終の校舎が建った時は、プールの場所はグラウンドになっておりました。また、最終の校舎が高層のため貯炭場等があった場所は見えなくなっております。
 ちなみに、撮影の時は学校グラウンドには、たくさんの黄色い花が咲いておりました。



写真《 柿田 清英 氏 撮影 》
< 関係者の許可を得て掲載 >
 写真集『崩れゆく記憶 端島炭鉱閉山18年目の記録』の著者やHP『軍艦島』の作成者などとして有名な故柿田さん撮影の写真です。関係者様より許可をいただきまして、掲載させていただいております。
 平成3年(1991年)の学校海岸崩壊時の写真でしょうか?。学校の基礎やグラウンドのかなりの部分が海と化しております。写真下段の中程に、大きなコンクリートの塊が見えますが、この塊が、その昔、学校グラウンドにあったプールの一部ではないかと思います。ちなみに、私が学校に通っていた昭和40年代には、グラウンドにはその姿はありませんでしたので、昭和20年代まで使用されていたプールは、土の中に残っていて、学校海岸崩壊時に、再び、その姿を地表に現した時の写真のようです。


写真《旧小学校校庭での野球大会の遠景(昭和27年頃)》
<写真は「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 校舎の右側、学校グラウンドの角に四角い穴が見えますが、そこが当時のプールの場所です。島の先輩によれば、プールの高島側は上級生用の深い部分で、浅い部分はその手前にあったそうです。終戦後、生徒が増えた時は校舎をプール側に延長し対応したそうですが、昭和32年4月1日に学校・病院が焼失した時の写真(下の下の写真)には、そのプールの姿が見えてますので、プールは取り壊さずにプールの上に校舎を建設したようです。


<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 上段の写真と比べて下さい。奥の方の校舎がプールの方に延長されているようです。
 ちなみに、「炭の光(昭和27年)」には、「八月十七日実施予定の文化部主催高浜行海水浴は荒天の為二十四日(日曜日)に延期となり、二十四日は再び、天気晴朗なれど波高き為、止むを得ず島内で実施の運びとなって、この日は健康保険と共催で正午から学校々庭で西瓜割り、一方、プールでは学童の競泳及び西瓜とり、続いて大人の競泳及び西瓜とり、ラストに山道における宝探しが行われ、賑わった端島の日曜日のことが書かれていますので、「先々代プール」は昭和27年までは確実に使用されていたようですが、端島小中学校の昭和42年度学校要覧には、「昭和29年3月27日 プール埋立」の記載がありますので、昭和28年の夏場ぐらいまでは使用されたかも知れません。


<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 ※分かりやすくするために、赤色の矢印を追加しています。

 昭和32年4月1日に学校・病院が焼失した時のプール付近の光景です。写真右側中段に四角い構造物がありますが、赤色の矢印の先には、プール固有の手摺りや壁らしきものが見えるような気がします。


〔 先代プール(南部) 〕

 先代プールのことと思いますが、「炭の光(昭和28年)」には昨年のこととして、「九月七日端島プール開き」、「村費百九拾万円を投じて南部運動場に建設」の記載があり、また、「町村を廃し町を設置することについての申請書 (関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村)(昭和三十年二月十日)」には、端島プールとして、規模85坪の記載がありました。南部には、昭和27年にプールが設けられるようです。
 ちなみに、先代プールの時は子ども用プールがないようで、「人間の土地(奈良原一高 著)」には、子ども用プールがない、大きなプール?のみの姿がありますが、このプールは昭和31年8月の台風九号にて破壊されたそうです。



〔 臨時プール(貯炭馬横) 〕

 「炭の光(昭和32年)」の記事には「昨年の台風9号で端島のプールは完全に破壊されてしまつた。 (途中略) 外海に出て泳ぐというようになれば事故は必至であらうと云うことで、会社では安全なビニールプールを購入し貯炭場横に設置した。 (途中略) 直径七、五米の円形で深さは九十糎、外側に板をめぐらして淡緑色塗料をほどこし至極ツマートなもの。」との内容が書かれています。


〔 最終プール(南部) 〕

写真《夏だプールだ!!(昭和33年8月14日新プール開き)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 私の記憶には手前の丸くて浅いプールの記憶はありませんが、もしかしたら 臨時プール(貯炭馬横) を移設したものではないかと思います。


写真《s33新プール開き》  <写真は島の先輩より>
 昭和33年発行の「炭の光」には、「プール完成に大喜びの子供たち」の記事があり、「昭和31年8月におそった九号台風でまったく破壊されたプールが、二年ぶりに再び登場し、夏を迎えた子供たちを喜ばせている。」やプールの使用時間については、「毎日午前十時から午後四時まで(十二時から一時まで停止)  この時間は原則として、小、中学校生徒とする。午後四時以降は一般。」の記載があります。


写真<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 プールまで海水を汲み上げる際は、写真左上の護岸上にあるクレーンに吊したポンプ(ポンプとクレーンの間はビニールホースで繋がっていました。)を海中まで下げていました。時々、プールの中を小魚が泳いでいることがありましたが、最近、島の先輩から聞いた話によりますと、ポンプには網が付いており、そこから小魚が吸い上げられたのではなく、釣り人が釣った小魚を投げ入れていた旨を伺いました。(私にもその網の記憶はあります。)
 なお、プールへの給水ですが、プールの直ぐ横に給水管があった時代(閉山近く?)もあるかと思います。


写真<村里 榮 様撮影>
 手前の小さなプールが子ども用で、その先の大きなプールが大人用でした。また、プールの先には炭坑の作業場がありました。また、写真右下には南部にあったトイレの建物が写っています。


写真<村里 榮 様撮影>
 夏場以外の時期でプールの水が抜かれている時は、大きな方のプールの底で、ソフトボールをして遊んだ記憶があります。また、季節外れで水泳に使用されていない時期に水が入っていた時は、模型の船を浮かべて楽しんでいた方もいらっしゃいました。


〔 閉山後の光景 〕

写真
<2014年撮影>
 プールの中には大きな石が転がっています。また、写真上段の中央から左側にかけての護岸ですが、島に人が住んでいた頃の護岸ではなく、無人島となってからの台風被害により、新しく造り直された護岸です。

写真
<2014年撮影>
 プールの角の部分ですが、特徴ある部分が少し残っています。


写真
<2014年撮影>
 プールの底の部分に、ラインの役目をしていたタイル?が残っています。

写真
<2015年撮影>
 大きなプールの部分しか、プールの壁は残っていません。本来なら、手前の方に小さいプールの壁があるはずなのですが・・・。


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