給与等・家賃・光熱水料等・調理熱源

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 給与等 〕

  • 採炭夫の平均給与は15万円だったが、県内求人企業の平均給与は6~7万円。中京、阪神地方でも11~12万円。
    <『サンデー毎日』、毎日新聞社、昭和49年2月3日発行、通巻2893号、11頁>より
    坑内採炭夫の平均給与で鉱員全体の平均給与ではありません。坑外職種の方はこの金額よりも安かったと思います。なお、<『サンデー毎日』、毎日新聞社、昭和49年2月3日発行、通巻2893号、11頁>には、閉山で島の離れる方のこととして「「共かせぎでもしなければとても・・・・・・」とつぶやく30年勤続の鉱員の表情は複雑であった。」との記載がありますが、島を去ると給与は減り家賃や光熱水料も一般的な金額が必要だったかでしょうから、離島者の皆さまの不安が偲ばれますし新しい土地での生活もご苦労をなされたことと思います。
  • 賃金は鉱員で職員の課長クラスより多い人も大勢いて、採炭夫の場合25日稼働(25方[かた-三交代制のため一日の稼働を「方」と言う])、30時間残業で手取り8~8・5万円[/月]、一番安い坑内夫でも税込み6万円[/月]、多い人で10~11万円[/月]。(70年5月)、賃金内容は、固定給+生産給+島手当+精勤手当(2150円~3600円/日)(16万以上の場合)ボーナス年2回、1回74500円(平均)である。
    <NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、137・138頁>より
    具体的な職種での状況は不明ですが坑内夫給与の幅が確認できます。坑外夫の場合はいくらぐらいだったのでしょうか?。

〔 家賃・光熱水料等 〕

  • 光熱水道費・共同浴場の入浴代および家賃はあわせてわずか10円でした。家賃は戦後労働組合ができるまではタダでした。労働組合ができたあと、組合はタダにするように要求しましたが、「タダは駄目」という会社側の申し入れがあり、「それでは」ということで月10円に決められたとのことです。この料金は閉山まで継続しました。
    <加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、112頁>より

  • アパートは2DK並みの広さ。家賃は水道に電力(夏は115キロワット、冬は180キロワットまで無料)を含めてたったの十円也。
    <『毎日グラフ』、毎日新聞社、昭和40年3月21日発行、通巻784号、15頁>より
    高島の状況は こちら をご覧ください。

  • 水道料、電気代、ガス代 家賃全部あわせてたった10円。
    <『サンデー毎日』、毎日新聞社、昭和49年2月3日発行、通巻2893号、11頁>より

  • 燃料(プロパン)が1本100円で買える。
    <『炭の光』、第186号、昭和41年6月18日>より

以上の金額は三菱従業員の金額であり、社外者の金額としては、<『炭の光』、第186号、昭和41年6月18日>に「ある方」の家計簿からとして「家賃1,000円也、水道料400円也、電灯料700円(k当り10円)」の記載、<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、138頁>に「下請労働者の場合」として「プロパンガス(実費)、ふろ代(月200円)、家賃(月1200円位)、等」の記載があります。ちなみに、野母商船の料金の違いについてはこちらをご覧ください。


  • 坑夫の家族持に對てしは坑夫舎宅を無料にて貸與し、飮料水、用水を供給し、各戸に電燈を備ふ。
    (電燈料一ヶ月十錢、五燭光五錢)
    <長崎商業會議所調査部、『長崎に於ける石炭の集散』、長崎商業會議所、大正七年八月二十日、三四頁」より>
    ※高島炭坑としての記載であり高島での状況かとは思いますが、端島においても状況に大差はないものと思い掲載いたしました。

〔 調理熱源 〕

 先輩方のお話や各種資料等を基に、家庭用調理熱源の変遷について、種類や使用時期を記載しました。ただ、現在、私が知り得ている情報だけでの記載ですので、かなり大まかな記載となっていることをご容赦ください。どなたか、お詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますよう、よろしくお願いいたします。


《 たきぎ(薪)、消し炭、木炭、練炭 》

 <加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、114頁>には、「戦前から台所にはかまどと大きな水がめがありました。かまどの燃料としては坑木を切りそろえたものがたきぎとして配給されていました。さらに、かまどで燃やした坑木を水で消した消し炭を七輪で火をおこして魚を焼いたりして、再利用していました。」の記載があります。また、昭和十年代から二十年代半ばかけて島に住んでいらっしゃた先輩からは、「かまどには薪、七輪には木炭と消し炭。薪は坑内で使用した坑木です。南部の廃坑木置き場で薪にしていたのは記憶しています。」とのお話を伺っています。ちなみに、私には、七輪に練炭を入れた姿をおぼろげながらですが覚えています。


《 電熱器 》

 <加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、114頁>には、「高島に会社の発電所(高島炭砿二子発電所)があったため、もともと電力は十分にありました。戦時中はさておき、終戦後電力事情がよくなってからは1kwや1.5kwの大容量のソケットが備えつけられ、大きな電熱器が台所に置かれ、調理に使われました。」の記載がありますが、具体的な使用年月が分かる資料には巡り合えていません。ちなみに、高島のこととなりますが、昭和32年9月28日に取り交わされた「家庭用電力消費規制に関する協定書」の覚書や覚には「電熱器使用許可」に関する記載があり、以前、拙ホームページの掲示板に端島にて撮影された「電熱器許可證」の写真が投稿されたことがありましたので、その頃には端島でも使用されていたのではないかと思います。
 なお、昭和24年の記録で、高島、端島も本土?と同様の取り扱いだったかどうかは不明ですので、参考情報になり得るかどうかは分かりませんが、「 国立国会図書館―National Diet Library ( https://www.ndl.go.jp/ ) 」にある 「 国会会議録検索システム( https://kokkai.ndl.go.jp/#/ ) 」 にて「電熱器」をキーに検索すると「第7回国会 衆議院 通商産業委員会経済安定委員会連合審査会 第2号 昭和24年12月9日」の会議録があり、「該当箇所を展開(全2箇所)」をクリックしますと九州での電熱器禁止についての記載があります。


《 ガス 》

 <NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、148~150頁>の「(資料5)労使が交わした「覚書」の例」の中に、「◎1966.1.13 覚書」として以下の記載があり、プロパンガスへの切替の頃の状況が分かります。
  • プロパンガスへの切替は個人の希望によるものとし、希望しないものの電力扱いは現行通りとする【*】。
  • プロパンガスは年間4本(10kgボンベ)1本当り各人負担100円にて配給。
  • 電力基準は年間平均132kw/hまで無料。これをこえる場合は1kw/hにつき5円。

* プロパンガス導入以前は灯油の配給あり。


 ちなみに、<加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、112頁>には「当初は1ヵ月に1本無料で配給され、2本目からは有料、昭和40年代になると有料化され、1本100円になりました。」の記載がありますので、ガスの使用開始は昭和40年代よりも前になるようです。
 なお、間違いでしたらお許しをいただきますが、端島でのガスボンベ配置は最後まで集中方式にはならずに、各家庭にガスボンベを設置していたと思います。また、使用も任意であったため、私の家庭では他の家庭よりも遅くまで電熱器で料理していた記憶がありますが、残念ながら、灯油配給については記憶がありません。


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