隔離病棟裏のすべり

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写真
《三菱高島礦業所−端島坑鳥瞰》
<前川雅夫 編著『炭坑誌−長崎県石炭史年表』葦書房(1990)より編著者及び発行所の許可を受け掲載>

 昭和十年代初めの光景ではないかと思います。南部は広場で、そして、閉山時に隔離病棟があった付近の護岸はくぼんでします。
 島の先輩によりますと、そのくぼみ部分には、階段状の「すべり」があったそうで、その沖合に、夕顔丸、村雨丸が停泊して、艀で連絡していたそうです。先輩の年代を考えると、上陸桟橋(クレーン式)(大正11年)が完成している時かとも思えますので、常時使用していたかは不明でしたが、平成22年10月に、別の島の先輩より表海岸の桟橋が使用できないときに、こちらの場所を使用していたことを伺いました。
 ちなみに、昭和十年代初めにお生まれで「めがね桟橋」を使用していたことをご存じの先輩や、その方よりも若干早く生まれた先輩もこちらの桟橋についてはご存じありませんでしたので、昭和十年代には既にメインの場所ではなかったのかも知れません。


写真
《昔の絵葉書から部分拡大図》
 昔の絵葉書から、閉山時に隔離病棟があった付近の拡大図ですが、写真の中央部分の護岸が途切れて島の内部が見えています。
 なお、この部分拡大図の場所は、《端島の埋立拡張経過図及び埋立以前の地形図》でいえば、明治30・33・34年拡張の部分にまたがる場所のようですが、明治34(1901)年測量の旧版地図(国土地理院)では、部分拡大図の場所はまだ描かれてなく、遅くとも、明治38年の撮影と思われる写真になってから、その姿を現しているようです。


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