めがね桟橋

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真
<写真は島の先輩より>
 写真中央の護岸前にあるのが「めがね桟橋」です。昭和23年には端島を離れた先輩からは、南風泊港(南風が強い日に使用)として、戦前までは夕顔丸が来て艀を使用し乗り降りをしていたお話しを伺いました。
 また、昭和十年代から二十年代半ばかけて端島に住んでいらっしゃった先輩からは、台風の時に、ここから島に上がった記憶や野菜船の方が使用していた記憶があるとのお話しを伺いました。

写真<2004年撮影>
 めがね桟橋もかなり崩壊?摩耗?しています。


写真
<写真は島の先輩より>
 昭和37(1962)年3月31日に、最後の航海を行う夕顔丸を見守る人々を写した写真とのことです。ちなみに写真の左下ですが、「めがね桟橋」出入口の外側(海側)に広場があり多くの人々がいらっしゃいますが、下段の写真には当該広場は見当たりません。

写真<写真は島の先輩より>
 こちらの写真の「めがね桟橋」出入口の外側(海側)には、左写真のような広場は見えないようですが、日給の手前には59号棟が写っているようです。
 ついては、59号棟ができる昭和28年頃迄には「めがね桟橋」出入口の外側(海側)の広場は存在しなかったようですので、広場は昭和30年代前後にできたように思われます。
 なお、写真下の方では作業をする人々の姿が見え、「めがね桟橋」出入口や出口手前の階段には、作業を見守っているような人々が見えていますが、どのような作業をなされているのでしょうか?。


写真
《潮が引けば海岸も子どもの遊び場》
  <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>

 「めがね桟橋」出入口の先に、51号棟ではなく、昭和34年9月17日の台風14号で倒壊する砿業所武道場兼体育館らしき建物が見えるので、それ以前の写真と思いますが、階段の途中等にゴミが散乱しているようです。
 昭和40年代の中頃位は、めがねからゴミを捨てていたのを覚えていますが、当時も、ここから捨てていたのでしょうか?。

   参考:ボタ山・ボタ浜(西海岸)

写真《潮の引いた岸壁の下で遊ぶ子供達》
  <写真は島の先輩より>

 こちらの写真でも、「めがね桟橋」出入口の先に、砿業所武道場兼体育館らしき建物が見えていますので、概ね同じ時期の撮影かと思いますが、こちらの写真上部の護岸上には足場らしき姿が見えています。


写真
<写真は島の先輩より>
 「めがね」のカーブの部分です。護岸上には釣り人の姿が見えています。また、護岸表面の模様を見ていると、護岸の段が積み上げられているのが分かります。

写真<写真は島の先輩より>
 閉山時に48号棟や51号棟があった場所の護岸箇所ですが、本来(古い)の護岸の外側に、一段(子どもが手を伸ばしたぐらいの高さ)低い護岸ができていました。その護岸が写っていますので、左の写真より、後年の撮影のようです。
 その一段低い護岸の箇所は、本来(古い)の護岸で島内からは見えないので、子どもでもゆっくりと釣りができたり、遊んだりといい場所でした。
 ちなみに、一段低い護岸には行くには本来(古い)の護岸から飛び降りて、戻る時は護岸をよじ登っていました。


写真
<写真は島の先輩より>
 島内から見た、「めがね桟橋」出入口ですが、出入口の上には配管らしき物が見え、写真右端にはホースのような物も見えています。何のための物だったのでしょうか、私には想像がつきません。撮影の時期としては端島の最後の頃ではないかと思います。

内容《三菱高島礦業所 端島坑九階建社宅》の部分拡大
 16・17号棟が9階建てで、18〜20号棟が6階建ての頃の日給が写っている絵葉書からの部分拡大ですが、画像の左上に、閉山間際の頃と変わらない「めがね桟橋」出入口の姿が見えています。
 また、「めがね桟橋」出入口の護岸上にはレールが敷かれているように思いますので、48、51号棟付近の護岸が大正14年に崩壊した際の復旧工事か、閉山時に59号棟から隔離病棟があった箇所の石積護岸の手前にコンクリート護岸を設ける工事の際の光景かと思いますが如何でしょうか?。もし、その考えが正しければ昭和初期の頃の撮影と思われます。


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