台風等被災・48、51号棟付近(大正14年)

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写真《 大正14年(1925)台風によりこわされた岸壁,後方の建物が当時の日給社宅 》
  <”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>

 当時の日給は16・17号が9階建てで、18〜20号が6階建となっています。16〜18号棟にかけての護岸部分ですが、島内の地面よりも高い部分の護岸がこわれて、日給の低層階が見えています。
 また、こわれた護岸手前の海上には船が見えていますが、「炭の光」(第102号・三菱高島砿業所)に掲載されている「端島の今昔」の記事には同じ写真が掲載され、「写っている船の名前は村雨丸」との説明があります。
 なお、この写真に写る護岸全体は石積護岸のみのようですが、この写真から数年後の光景と思われる写真ではコンクリート護岸が登場しています。


写真《三菱高島礦業所端島全景》    <所有絵葉書>
 この絵葉書を拡大して見ますと、日給前の護岸が崩壊していますので、上段写真と同時期に撮影された写真を使用した絵葉書のようです。
 なお、この写真を見て、あくまでも個人的感想を述べさせていただくと、この当時の端島の外海側(西側)にはコンクリート護岸はなく石積護岸だけのように思います。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 閉山時に59・60・61号棟があった部分には、その昔、先々代校舎時代のグランドがありましたが、その場所には木造家屋が建っているようなので、昭和10年代初めから中頃にかけての光景かと思います。
 日給前の護岸においては、大正14年の台風時に崩壊した石積護岸が綺麗にコンクリート護岸へと修復されているのが印象的ですが、護岸の下の方には昔の石積が残っているようなので、石積護岸の上にコンクリート護岸を設けたのでしょうか?。ちなみに、砿業所武道場兼体育館の姿はまだ伺うことができません。

写真<出典:国際文化画報(昭和26年4月発行)>
 後日、51号棟が建つ場所には砿業所武道場兼体育館が見えていますので、昭和初期の頃の撮影かと思います。なお、左上の写真でも見えていますが、護岸の手前には少しですがボタ浜が存在しています。


〔 閉山後の光景 〕

写真<端島支所下っぱ用務員さん投稿写真>
 閉山後の写真です。51号棟ができていますが、砿業所武道場兼体育館とは違い高さがありますので、護岸ぎりぎりまで建物群が押し寄せてきているが分かります。
 ちなみに、上段写真に写る護岸の手前には、少し低い護岸ができていて護岸の厚みが増していますが、少し低い護岸と奥の護岸の高さの違いは飛び降りたりよじ登ったりすることが可能な程度でしたので、少し低い方の護岸に降りて魚釣り(私の釣果はほとんどがアラカブです。)やいろんなことをしていました。


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