高島簡易年表

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

1695年元禄8年□深堀藩主の下僕、五平太が、広磯の地で野焼きをしていたところ、その火が石に引火、五平太はこれを「燃石」と名付けて燃料として村人に託した。(他にも同じような話しがあり確証なく、伝説)
1710年宝永7年□石炭採掘事業が、深堀の直営となる。
1804年文化元年□石炭採掘事業が、佐賀藩の直営となる。
1813年文化10年□伊能忠敬が、鷹島(高嶋)を測量する。
1855年安政2年
場  所
存 山
出炭量(斤)
高島 広 磯
儀  平
8,640,000
寅10月より卯3月迄6ヶ月
〃  
善 四 郎
7,200,000
寅10月より卯4月迄7ヶ月
〃  広 磯
常右衛門
2,160,000
卯6月より卯9月迄3ヶ月
〃  中 山
文 四 郎
1,620,000
卯正月より卯4月迄4ヶ月
〃  〃
亀 作
900,000
卯正月より卯9月迄9ヶ月
香焼 阿 不
徳 松
1,178,400
〃        〃
〃  〃
5,000,000
寅10月より卯6月迄9ヶ月
〃  〃
平 蔵
900,000
〃        〃
《深堀私領高島・香焼石炭調》
<平 幸治、『肥前国 深堀の歴史』、長崎新聞社、平成14年(2002)、497・498頁>

『肥前国 深堀の歴史』には、「『松乃落葉』巻二には安政二年(一八五五)の佐賀藩内における石炭産出量の調査報告記事がある(『幕末軍事技術の軌跡−佐賀藩史料「松乃落葉」−』一五〇頁)。」の記載があり、左記表が記載されています。
 なお、<杉本 勲・酒井泰治・向井 晃、『幕末軍事技術の軌跡−佐賀藩史料「松乃落葉」−』、杉本 勲、昭和62年、362・363頁>の「巻二 注」には、下記の説明があります
広磯 高島の地名。南部の金ホリ鼻西側の地域。
存山 採掘権を持つ者の管理する山。
百摩崎
※「摩」には「なで」の読みが振られています。
 高島の地名。北東部の岬。
中山 高島の地名。南東部にあり、現在の高島港付近の地域。
阿不
※「阿不」には「あぼ」の読みが振られています。
 香焼島西南の地。現在の阿保(『直正公 伝』中には”あほ”と記す)。
中山小浜 高島中東部の地名。中山の北側。
1858年安政5年○長崎海軍伝習所教官カッテンディーケ(オランダ海軍中尉)が高島炭坑を視察
 石炭は良質。設備の不備と人力を無駄に消費している点など、大いに改良の余地がある。先に日本に到着している炭坑道具を据付け、山に1,2個穴を掘り、そこから石炭と水を蒸気力で地上に運ぶ方法を提案した。
 坑口海抜約30m、坑道高さ約1.5m、坑口から斜坑25分で切羽。湧水は手足で動かす水車で、段々高い所へくみあげ坑口で放流。多数の女や子供が小さな竹籠に石炭を入れ運搬、姿は裸に近い。
1867年慶応3年○高島百麻崎石炭100斤代、正金18匁(元値段15匁、増銀3匁)
○鍋島藩は外国人との共同経営を検討、松林源蔵はグラバーと密談、高島測量
 更に続く説明の中には「肥前国君(鍋島直正)当時ノ世勢ニヨリテ大ニ見ラルゝ所アリテ文明国ノ採掘法ヲ採リ各国ニモ恥サル事業ヲ起サント・・・・・」との記載がある。
1868年明治元年○鍋島藩は、開発許可を長崎の九州鎮撫総督から取得
○鍋島藩とイギリス商人グラバーは、高島炭坑共同経営契約
○英人技師モーリースを雇入れ立坑の開さくに着手
高島炭坑にて人力,馬力による四輪車を使用,わが国最初の坑内炭車.(A64頁)
1869年明治2年●北渓井坑(立坑、深さ45m)開削完了、採炭開始
○鍋島藩は立坑開発にともない深堀藩の藩営炭坑と民営炭坑に閉山命令
 代償として@深堀藩に周辺諸島開発許可と3万円の開坑資金
  A民営坑主8人に計15,080円の補償金(完済は明8、工部省より)
 以後、深堀藩の武士達は明治23年まで香焼島、沖ノ島、伊王島、端島、二子島、中ノ島等を開発
□民営炭鉱鉱主名
 小濱八尺−貞五郎、同ガラノ濱−八百蔵、小濱旧八尺−太右衛門、小濱旧坑八尺−亀作
 中山三尺−彦次郎、中山三尺亀−久次郎、広磯八寸−乙松、金堀−庄市
□高島が伊万里県深堀管轄となる。
1870年明治3年○長崎英国領事館において、グラバー商会の債権者会議開催、商会は破産の宣告を受け解散
●グラバー商会破綻、オランダ商社が高島炭坑の利権を継承
○高島炭坑百摩崎坑日雇坑夫が賃金引下げに反対して小頭(納屋のかしら)を襲う。
●南洋井坑の開削開始
1871年明治4年高島炭坑,坑外軌道自動斜道を利用し,海岸桟橋にいたる間を石炭運搬.(A76頁)
○南洋井坑開坑(1丈8尺層採炭のため138尺の立坑を尾浜に開さく)
□高島が長崎管轄下に置かれる。
1872年明治5年○鍋島家、現行継続を出願、工部省宛
○工部省、鍋島家出願に対し、伊万里県を通じ却下 共同企業は一切認めない方針
○松林源蔵、高島炭坑経営一切を伊万里県に引継ぎ、辞職
○旧佐賀藩主鍋島直大、高島炭坑継続を出願し、これを不許可、官収の方針
○其坑直下すること凡ソ三十七間、鉄道を築造し鉄鎖を乗降し、人夫の上下、諸物の運搬に便す。最下に至れば坑道開達し、炭液と潮水の漲溢するはポンプを掛けて翻除し、毎時機械を用ひざるなし、故に一字間数万斤を掘出すと雖も、役夫甚だ多からず。
1873年明治6年○上野外務小輔はグラバー商会との契約解除のため、英・蘭公使、グラバーの管財人ボードインと協議、支出総額に幾分の利益を加算して洋銀40万ドルを支払うことで回収契約調印
1874年明治7年○1月、高島炭坑を官営とする。
  1.19 外務省、蘭商社より高島炭坑を領収、直ちに工部省へ交付。
  1.26 外務省、洋銀40万ドルをオランダ商社ボードウィンに支払
    ボードウィンへ35万5,000ドル、オリエンタルバンクへ4万5,000ドル
○元高島炭坑請負人(南洋坑請負人)小山秀(白川県天草郡御領村)、同坑への貸付金の返済につきオランダ商社より返金斡旋方を長崎県令に依頼
○高島炭坑、民屋を借りて校舎にして下等小学校を設立
○高島炭坑、11月に後藤へ払下げ
  東京蓬来社ニ於テ五十五万ドルヲ以テ(略)政府ヨリ御払下ニナレリ
○後藤象二郎は、即金納入分の20万円は持たず、政府の石炭2万tを後払で払下げてもらい、これを抵当に英一番館(ジャーデン・マジソン商会)から20万円を借入れて納入
1876年明治9年○北渓井坑は潮水侵入のため廃坑、南洋井坑を一坑とする。
高取伊好(27)、横坑と堅坑を開さく(○p.55)
胡麻五尺層採掘のため尾浜に横坑開さく、二坑と称す。(○p.55)
二子島にて、峰真興は英人ガヴァーを雇入れ、金剛試錐を試行(錐孔72mに達するも機械故障のため中止)(○p.55)
二子島で、日本最初の金剛試錐73m(240尺)を実施したが、めぼしい炭層は見付からなかった。(●p.209)
1879年明治12年□西彼杵郡高島村となる。
1880年明治13年○三菱、高島炭坑経営の後藤象二郎に資金を貸与
1881年明治14年○後藤、借金返済のため高島譲渡を決意、三菱が高島炭坑を買収し高島炭坑事務所を設置
○三菱譲受当初の記載として「以前は伊王島の灯台から野母崎を望むと高島がじゃまになって見えなかったが、今日ではよく見える。アノ島が低くなったとは不思議な話である」とあります。
1882年明治15年○料理屋は僅か2軒、酌取女7、8人。併し納屋金の下る頃には、長崎より淫売的や悪漢連が続々と派出
○立坑掘進、機械化計画
 第一坑は深さ三十間ばかりなるが、又々その下を凡四十間ばかり掘下げ其れに器械を入れ是より一層坑業を盛大ならしめんとするを協議中
1884年明治17年二子島借区が中ノ島とともに三菱に払下げられた。(●p.209)
○二子島、中ノ島の炭鉱区の払い下げを受ける
○坑夫に脚気罹病者が多発し600人に上る。借病室を建築し100余人入室
1885年明治18年○コレラ発生 避病院を金堀に建築し医師3名を雇入る、避病院追々増築して十棟の多きに至る、その年金堀避病院を解撤し悉皆燃焼す
○火葬場を設置
○島全体を隔離 長崎高島間の交通を遮断せられ特に山脇事務長一人の往来を許す
1886年明治19年○痘瘡流行、取敢へず脚気病院を以て避病院に充てしも狭隘なるにより新たに四十坪余の病院を新築
1.25 三菱,二子島炭坑を廃坑.(A136頁)
二子島の仮坑区券を返上(●p.209)
○コレラ予防策
  金堀の墓に石灰107円分
  一坑の湧水を百間崎に導き、溝の水はけを良くする80円
  蒸留水器完成
  百間崎に船改所を設く(来航の船を検査)
春.− 三菱高島,蒸留水器械を設置し一日平均6000ガロンの水を得る.(A138頁)
1889年明治22年△中山及び百間に横坑を新開
1890年明治23年△尾浜横坑(二坑)、採掘終了
1892年明治25年△南洋井坑、採掘終了
1893年明治26年中ノ島炭坑の廃坑届けと、改めて中ノ島全島試掘を申請、この時、二子島も同時に鉱区申請したと思われる。(●p.209)
1897年明治30年◎7月13日、高島の納屋制度が廃止され、三菱の直轄制となる
1898年明治31年 3.15 三菱高島,炭坑創業記念日.この年を初例として,三島坑夫雇員に餅紅白一重宛.場所限傭員などへは酒肴料50銭〜75銭を支給.(A188頁)
1899年明治32年△百間坑、廃坑
○二子坑で長崎造船所からバーレーさく岩機を借り入れて使用
1903年明治36年●蛎瀬〜尾浜間エンドレス車道運搬開始
●蛎瀬第1・2立坑開削終了、出炭開始
□明治36年頃、横島坑の社宅を高島仲山地区に職員社宅として5棟移築し、途中改修が行われ、閉山まで使用された。
1904年明治37年●百間崎製塩工場設置(蛎瀬坑廃坑のため石炭の供給が難しくなり大正末か昭和初めに廃止)[大正15年10月の高島礦業所概要には、製塩工場について、蛎瀬坑の休止と仝時にこれを廃止し、現今、端島坑のみとなる旨の記載有]
1905年明治38年△中山坑、廃坑
●鉱業用地として二子島全島を買収した。また、二子島周囲埋立および高島・二子島間埋立を村会の決議を経て村民一致の承諾を得るとともに、漁業補償料を支払った。
●蛎瀬製塩工場設置(大正12年 蛎瀬坑廃坑のため廃止)
1906年明治39年蛎瀬坑、ガス爆発により入坑者307名全員死亡(●206頁)
1907年明治40年●二子坑開坑式、第一・二斜坑開削着手(二子坑は、水没により廃坑となった中ノ島炭坑の稼行炭層、上八尺層の下に、空しく包蔵されている十八尺層他の各炭層を採掘することを主眼として開坑)
三菱高島,真水は蒸留水使用.水代1荷につき1銭に改定.二子島の多罐式汽罐以外はすべて海水を使用.(A230頁)
1911年明治44年●二子斜坑の掘削終了、水平坑道掘削に着手
1912年大正元年●二子第一斜坑の人車使用開始
1913年大正2年●二子第一・二坑、着炭
●二子製塩工場設置(大正10年、ボイラー給水が海水から清水へ変更及び事業用地不足のため廃止)
1914年大正3年(二子坑)鉄製炭車の導入とそれに伴うレールゲージの変更(20吋から24吋に切替)(●p.264、265)
1915年大正4年●二子第一斜坑をエンドレス巻に、第二斜坑を人車に切替え
□会社は九州汽船と野母航路の高島寄港に関する契約を結ぶ(大正6年時点4便寄港)
1916年大正5年■後の野母商船となる村木汽船部が長崎−野母航路を受け継ぐ。(野母商船HP:昭和4年12月、野母商船株式会社と改組(資本金10万円)
1918年大正7年●二子〜高島間の海峡連絡築堤工事に着手
1920年大正9年●二子〜高島間の連絡築堤工事落成、開通式
1923年大正12年蛎瀬の二堅坑、坑内湧水のため廃坑(▲)
蛎瀬坑、12年7月末をもって採炭を中止し,翌8月操業停止した。(●270・271頁)
1927年昭和2年□台風で百間崎の大劇場(回り舞台付き、共栄館)が倒壊
1931年昭和6年 4.14 三菱高島,煽石の名称を廃止し無煙炭とする.(A360頁)
1925年昭和10年□上二子山頂の通称「山の神」箱崎八幡社を高島神社に合祀。以後、祭礼を毎年4月3日 会社創業記念日に改められる。
1926年昭和11年□協和会館完成(改装:昭和27,33年、解体:昭和47年8月、昭和27年時:映画二本立て40円)
1937年昭和12年●高島新坑、出炭開始
1939年昭和14年●旧蛎瀬第一立坑の掘下げ工事着手
1942年昭和17年●旧蛎瀬第一立坑の掘下げ工事完了、立坑底から坑底坑道掘削着手
1945年昭和20年●高島新坑廃坑(▲廃坑理由:7月31日と8月1日の空襲で中央発電所が被爆し、電動力休止のため全坑湧水が充満したため)
1947年昭和22年□二子連絡埋立地(現 光町)に、木造住宅80戸建築
1948年昭和23年□光町新社宅133戸、光町高台7棟42戸、金堀職員社宅9棟18戸完成
1949年昭和24年◎6月1日、県立長崎西高等学校高島分校が開校
□尾浜に厚生課製氷工場が完成
1950年昭和25年●二子坑、蛎瀬立坑よりの入昇坑、第一・二斜坑揚炭に変更
●中山〜蛎瀬間の坑外電車運行開始
1951年昭和26年□尾浜のテニスコートがアパート建築のために撤去されたため、新たに新病院前にテニスコートが完成
1952年昭和27年□長崎西校高島分校の校舎完成 1棟4教室(177坪)
1955年昭和30年□高島町と高浜村端島が合併
1956年昭和31年8月16日台風9号が高島を直撃し、通勤電車は線路をのまれ通行不能となった他、住宅、桟橋、護岸等に大被害を受けた。蛎瀬街道の電車は台風9号罹災後永久廃止となった。(◆8頁)
1957年昭和32年●二子立坑開削起工式
□西校高島分校、平成32年4月の募集定員を80名に変更
□端島から高島高校に通学する従業員子弟のために、会社が光町テニスコート横に寮を設置
1959年昭和34年□今まで続けられていた踊り町制を廃止し、1地区の補助金相当額で他町の民芸物を招聘することに変更する。
1960年昭和35年◎4月1日、県立長崎西高等学校高島分校が長崎県立高島高等学校となる。
1962年昭和37年□高島高等学校、全日制普通科に切替え(3学級135名でスタート、昭和39年3月31日定時制普通科廃止)
1963年昭和38年□高島高等学校、第1期新校舎(鉄筋4階建)竣工
1965年昭和40年●二子立坑開稼働開始
1966年昭和41年□小島海水浴場廃止
1972年昭和47年□高島高校 格技場完成、また、PTA負担で端島からの通学生の宿泊所も兼ねて、合宿所を格技場下に建設
1973年昭和48年□町ボーリング場開所(8レーン、昭和51年閉所)
1976年昭和51年□3月 高島商船と長崎汽船が合併し長崎汽船として新発足 長崎〜高島8便中3便は伊王島寄港
1978年昭和53年◎5月、海底送水管布設替完成
1986年昭和61年◎11月27日、三菱高島砿業所閉山
1988年昭和63年◎10月1日、石炭資料館設置
1989年平成元年□3月4日 県立高島高等学校、卒業式並びに閉校式
参考文献
○ 前川雅夫、『炭坑誌−長崎県石炭史年表』、葦書房(1990)
● 『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)(1989)
△ 『長崎縣紀要』、(明治40年)
▲ 編集人 松尾謙治『高島町文化史』、(昭和24年初版・平成7年改訂版)
□ 『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会(平成15年)
■ 『野母崎町郷土誌』、野母崎町(昭和61年)
◎ 『高島半世紀の記憶』、高島町(平成11年)
◆ 『三菱高島砿業所 百年のあゆみ』、三菱石炭鉱業株式会社高島砿業所(昭和56年4月)
A 筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日

戻る


高島・中ノ島・横島へ

TOP

次へ