蛎 瀬 坑

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 『三菱社誌刊行会編纂、三菱社誌第七巻、(財)東京大学出版会、昭和55年復刊)』には、蛎瀬坑開削着手に先立ち、明治33年、準備工事として海面埋立運搬道路及び工場敷地用として広磯以西、番所打越、保木ノ上に沿う一帯の海岸及び中山、墓下における民有耕地宅地山林原野墓地を買収する旨の記載があります


写真《第二課事務簿 海面埋立ノ部》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 左の図は、「明治三十三年自七月至八月 第二課事務簿 海面埋立之部」に収納されている「埋立箇所を調べた図」で、図を説明した書類には「別紙図面朱線ノ通」との記載があります。図の朱線を探しますと、高島本島の左端と下端の場所が埋立場所のようです。
 <三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、205頁>には「明治33年11月5日に蛎瀬開坑係を設け,石垣構築,埋立造成を始めとし,島の南西端保木ノ上から尾浜に至る車道開削等,土木工事から開始して,立坑開削に着手した。」、「新坑を保木ノ上に定めたのは,旧坑および海岸に散在する磯堀跡を避けるためである。」や、「蛎瀬というのは,保木ノ上前面の海中にある瀬であり,保木ノ上立坑というより蛎瀬立坑と呼ぶ方が簡略なため,名付けられた。」等の記載があります。
 ちなみに、この頃は、高島本島と上二子島及び下二子島は地続きではありません。


写真《第二課事務簿 海面埋立ノ部》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 左図は、「明治三十三年自七月至八月 第二課事務簿 海面埋立之部」にある、高島炭坑の「埋立願」の附属図面で、表題は「長崎縣西彼杵郡高島村字保木ノ上三百四拾六番地先ヨリ番所打越四百五十五番地先ニ至ル海岸埋立圖」です。左上図の島の左端の場所かと思います。
 ちなみに、石垣と思われる箇所の下には朱線にて埋立箇所が描かれていて、面積の記載もあります。

写真《第二課事務簿 海面埋立ノ部》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 上図と同様に「埋立願」の附属図面で、表題は「長崎縣西彼杵郡高島村字山伏貮千七百五番第二地先ヨリ東尾濵貮千七百六番第六地先ニ至ル海岸埋立圖」です。左上図の島の下端の場所かと思います。
 なお、こちらの図面でも陸地の下には朱線にて埋立箇所が描かれていて、面積の記載もあります。また、図面右端の細長い構造物ですが、石炭積込桟橋になるのでしょうか?。


写真
《タイトル不明》 <グラバー写真帳より>
  <写真は長崎県立長崎図書館所蔵、許可を得て掲載、二次利用禁止です。>

 <三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、205頁>の蛎瀬坑の記載には「石炭の積出は引き続き尾浜から行うために,保木ノ上・金堀間の海岸を開いて石垣を築き,明治36年3月には坑外エンドレス車道運搬を開始した。ロープ速度は毎分91m(300呎)で,片道12分,一列車の定函は実車(石炭)で4函であった。」との記載があります。レールの間にあるのが列車を引っ張ったロープでしょうか。


写真
《タイトル不明》  <グラバー写真帳より>
  <写真は、長崎県立長崎図書館所蔵、許可を得て掲載、二次利用禁止です。>

 蛎瀬坑開発の頃の光景かと思います。

写真《グラバー資料アルバムより》
<収蔵: 長崎歴史文化博物館>
 左上の写真とほぼ同じアングルですが、こちらの方が若干広角で写っています。


写真「 《グラバー資料アルバムより》  <収蔵: 長崎歴史文化博物館> 」の部分拡大
 上段の右側写真を部分拡大しました。こちらの写真の左上部分ですが、大きな石積上に設けられている立坑櫓が二ヶ所にありますが、まだ、仮櫓のようです。ちなみに、明治・大正時代の蛎瀬第一竪坑と第二竪坑の概要は以下のとおりとなります。

区 分開削着手深 さ廃 坑
蛎瀬第一立坑明治34年3月162m
掘下後205m
大正12年8月
蛎瀬第二立坑明治35年4月187m大正12年8月
参考:<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、497頁>


写真《グラバー資料アルバムより》  <長崎歴史文化博物館所蔵>
 上段写真の光景を反対側から望む光景かと思います。
 上段写真の中央にある大きな建物がこちらの写真では左端に半分程度見えていて、上段写真の左上部分にある二ヶ所の仮櫓らしき構造物がこちらの写真では中央と右端の奥に見えています。
 なお、こちらの写真ですが、二ヶ所の仮櫓らしき構造物の手前はかなり低くなっていて、それぞれの構造物の手前に大きな石積が設けられていますが、これらの石積は竪坑用捲揚機の台座で完成後はかなりの部分が地中に埋められることとなるように思います。(下段写真の櫓右側に巻座上屋らしき建物が見えますが、巻座上屋部分の基礎には石積が見えています。)
 ちなみに、福岡県飯塚市にある「旧三菱飯塚炭鉱・巻き上げ機台座」は同様の設備ではないかと思っています。


写真《蛎瀬立坑(大正2年頃)》
<「高島町の足跡」(平成16年12月高島町発行)より、許可を得て掲載>
 立坑櫓周辺の光景です。櫓や捲座上屋は大きな石積上に設けられているのが分かりますが、上段写真に写る石積上に設けられているのではないかと思っています。なお、<高野江基太郎、『増訂再版日本炭礦誌』、明治44年(初版明治41年)、第二編94頁>には、左写真とほぼ同じ光景の写真が掲載されていますので、こちらの写真も遅くとも明治44年迄の撮影ではないかと思っていますが、 <第十四回西南區實業大會事務所、『長崎縣實業案内』、明治四十二年九月、国立国会図書館デジタルコレクション> の中段にも、蛎瀬坑と思われる写真が掲載されているようですので、撮影時期が明治42年迄遡れるか見比べてみては如何でしょうか?。
 また、蛎瀬坑との明記はありませんが、<高野江基太郎、『増訂再版日本炭礦誌』、第二編94・95頁>の「捲揚櫓」の項にある「高島に於ける捲揚櫓は、高さ七十五尺(基礎二十尺櫓五十五尺)の軟鋼製にして、徑十五呎六吋の滑車を備へ、■捲揚臺又軟鋼製にして、二臺の鑛車を容るべし。」の記載(■ですが私には判読不明な文字です。)は左写真に写る手前の大きな櫓の説明で、「高島第二竪坑は目下工事中に屬し、第一坑と同様の装置を爲すものとす。」の記載は大きな櫓の奥にある小さな櫓の説明ではないかと思っています。
 ちなみに、<パシフィックコンサルタンツ(株)編集、長崎市経済局文化観光部文化財課及び総務局世界遺産推進室監修、『史跡 高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭坑跡) 保存管理計画書』、長崎市教育委員会、2015年9月、55頁>の「図2-17 高島炭坑の坑口 位置図」においても、手前の大きな櫓の位置が蛎瀬第1竪坑で、奥の小さな櫓の位置が蛎瀬第2竪坑となっているようです。


写真
<出典:長崎県千名鑑(九州日の出新聞社・大正元年発行)>
 出典の発行年からしてかなり早い時期の光景かと思いますが、写真中段には柵のような構造物が見えています。
 ちなみに、この時の竪坑施設は昭和まで使用されることはなく、大正の終わり頃に廃坑となりますが、長崎市高島町にある石炭資料館には、「廃坑になった蛎瀬坑跡での会社レクレーション 昭和初期」と題された写真があり、その写真には、立坑櫓が載っていたと思われる石垣が二カ所に写っています。

写真《蛎瀬立坑》
<写真は、「町勢要覧昭和48年4月(昭和48年たかしま)」(高島町発行)より、許可を得て掲載>
 こちらの写真中段にも柵のような構造物が見えていますが、左写真と違って柵の直ぐ手前に建物はなく、柵を中心として、かなり広い空地が存在しています。
 もしかしたら、この空地に、下段絵葉書2枚の中段に写る大きな建物4棟が建つのではないかと思いますが如何でしょうか?。


写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 何の根拠もありませんが、写真手前にある横向きの建物二棟の先にある、縦向き2棟、横向き二棟の建物群が上段写真の空地の場所に建てられたのではないかと思っています。
 なお、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、206頁>の蛎瀬坑の記載には「明治39年3月ガス爆発により入坑者307名全員死亡という大惨事を被った」ことが記載されています。

写真《長崎港外三菱高島礦業所 高島 (蠣瀬坑方面)》
<昔の絵葉書より  所蔵: 九州大学 記録資料館>
 左写真とほぼ同年代の撮影かと思いますが、煙突右側の光景がかなり加わっております。


写真《 (長崎港外)双子島役人社宅 The Home of Firm Futakojima, Nagasaki. 》
 タイトルには「双子島役人社宅」の記載がありますが、正しくは「高島蛎瀬炭坑全景」となるようで、その理由はこちらをご覧ください。
 また、絵葉書に押されている風景印の日付らしき数字は「13.6.16」となっていて「大正13年6月16日」のことだと思いますが、写真を撮影し絵葉書が販売され風景印が押されるまでは若干の時間が必要で、「大正13年6月16日」よりも少し前の撮影ではないかと思います。ついては、蛎瀬坑の最初の廃坑は大正12年8月ですので、もしかしたら、廃坑間際の光景である可能性もあるかと思っています。
 ちなみに、廃坑の原因については、<『高島町文化史』、平成7年3月発行(昭和24年初版の改訂版)>には「大正十二年八月坑内湧水のため廃坑となった。」の記載があり、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、270・271頁>では大正時代の蛎瀬坑について「先年の坑内火災により密閉されていた十八尺層の取明けを実施する等,坑勢の回復を図ったが,第一次大戦後の不況下にあって原価高を克服できず,遂に,12年7月末をもって採炭を中止し,翌8月操業停止した。」の記載があります。


写真<写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より>
 昭和49年度撮影の航空写真です。大正12年8月に廃坑となった蛎瀬坑ですが、<『高島町文化史』、平成7年3月発行 (昭和24年初版の改訂版)>には「昭和十五年八月十五日旧蛎瀬坑第一坑の切拡げ、掘鑿、築壁を行った後、深さ三百五十七メートルの堅坑の開鑿を終了した。」の記載があり、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、>では、「昭和14年12月に,旧蛎瀬第一立坑の改修掘下工事を開始した。これはこの新区域の展開のための通気改善を主目的としたもので,その前月には,坑底連絡坑道の開削も始められ,17年4月,立坑掘下げを完了して,立坑側からも坑底坑道の開削を開始し,18年2月坑底坑道は貫通し,蛎瀬立坑と二子坑西北部は連絡がなって,通気は改善された。蛎瀬立坑は戦時の資材不足のため,坑口設備(立坑巻および主扇)の設置は戦後に待つこととなった。」(頁数299,300)や「昭和24年末巻揚機を始めとして全設備が完成し,一方,坑外通勤の便利のための中山~蛎瀬間に敷設した坑外電車も,25年初頭から運転を開始したので,25年1月3日蛎瀬立坑完成祝賀の盛大な式典が挙行した。」(頁数334)が記載されています。
 また、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、490頁>では、「高島では二子坑の深部開発に備え,排気・人員昇降の条件を整えるために,蛎瀬に立坑を開発する工事を計画し,昭和14年10月よりの準備工事ののち着手された。なお、蛎瀬立坑は明治34年開鑿されたが,その後休止して水没状態になっていた。したがって前記の工事は水没した立坑の追水掘下げからスタートした。掘下げ工事は昭和17年に終わったが,その後の工事を続行中,戦災により高島全坑の操業は中断し,工事も中止された。工事の再開は昭和21年7月,そして立坑は24年7月15日,坑内外の諸施設も同年12月にすべて完成した。この工事完成によって従来の中央式通気は第一,第二斜坑を入気,蛎瀬立坑を排気とする対偶式に改善され,また同立坑を入昇坑に利用することで往復時間の短縮を実現し,第二斜坑を揚炭用に切替えた。」との記載があります。


〔 閉山後の光景 〕

写真
<ハンドルネーム 端島支所下っぱ用務員さん投稿写真>
 昭和61年閉山後のs62年か63年の撮影とのことで、残っていた立坑のワイヤーはピンと張ってなく、ダランとしていたそうです。

写真<2007年12月撮影>
 櫓は昭和63年3月2日に倒壊され、その場所は、再び平地に戻っています。


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