炭 坑 舎

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真
<写真は島の先輩より>
 写真左の建物が炭坑舎で、その右側には桟橋と夕顔丸の姿が見えます。昭和37年の社船廃止前までは、夕顔丸や屋島丸等はこの炭坑社の前から、端島・高島に向けて運行されていました。また、社船廃止後にも大波止発着の野母商船の何便かは小曽根に寄港していました。

写真<写真は島の先輩より>


写真
<写真は島の先輩より>

写真<写真は島の先輩より>


 三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌第十八巻』(財)東京大学出版会(昭和55年復刊)には明治四十四年の記録として、「長崎夕顔丸定繋浮桟橋延長」と題して、「従来長崎高島間唯一ノ交通機関トシテ日曜日一回其他毎日三回宛航行ノ長崎支店所属夕顔丸ヲ係留セシムベキ長崎ニ於ケル定繋桟橋ヲ缺キ、巳ムナク繋留「ブイ」ヲ使用シ、往復共毎ニ通船ニ由リ揚卸ヲ行イ・・・風雨ノ際ニハ便乗者ノ困難尠カラザルヲ以テ夙ニ桟橋建設ノ必要ナルヲ認メシモ、従来、海面使用ノ許可ニ至ラズ、而モ頃日関係官庁ニアリテモ桟橋建設ノ為海面使用ヲ許可スベキ意向ナルヲ確ムルニ至り、造船所ノ意見ヲモ聴シ、支店所属浮桟橋ヲ延長スルト共ニ繋留「ブイ」ヲ引揚ゲ、其材料ノ一部ハ之ヲ延長桟橋ニ使用シ、波浪甚シキ場合ノ外同船ヲ此ニ繋留セシムルコトトシ、設計工費予算ヲ支出シ、其工費半額ハ高島炭坑負擔トス」の旨の記載があります。その昔、夕顔丸は炭坑舎の沖合に停泊していたようです。


写真
<写真は島の先輩より>
 炭坑舎前の桟橋に接岸中の朝顔丸です。

写真<写真は島の先輩より>
 写真左の構造物は、炭坑舎の先(香焼方向)にあった製氷工場の施設かと思いますが如何でしょうか。


写真
<出典:「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」 (昭和49年度撮影、長崎地区、cku-74-20_c20_7.jpg、長崎市小曽根部分の拡大)>
 端島閉山直後の撮影のようです。
 当時就航していた、「つや丸」「せい丸」は炭坑舎の左の方にある造船所にてドック検査を受けていたと思います。


 下記の年表は、炭坑舎関係と夕顔丸の履歴概略を重ね合わせて作成しました。なお、書名や時期は覚えていませんが、三菱鑛業株式會社若松支店長崎營業所の記載も見たことがあります。

明治14. 3.31郵便汽船三菱会社、高島炭坑を後藤象二郎より譲受。(※1)
      4. 1後藤炭坑商局(炭坑舎)の建物を使用して高島炭坑事務所を設置(※1)。
  19. 3.29郵便汽船三菱会社、三菱社と社名変更(※1)。
  21.12. 1三菱社、高島炭坑長崎事務所を三菱炭坑事務所と改称。(※1)
  23.12.22三菱炭坑事務所を長崎支店と改称。直方に三菱炭坑事務所を設置(九州の石炭坑を統括)。(※1)
  24.12.25三菱炭坑事務所を若松に移転。(※1)
  26.12.15三菱社を改組し、三菱合資会社を設立。(※1)
  27三菱合資会社が発足すると同時に、夕顔丸は、同社長崎支店の所管となり、長崎〜高島〜端島間唯一の交通機関として日曜日1回、その他毎日3回あて運航されていた。(※2)
  34. 5. 6長崎支店新築家屋に移転。(※1)
大正 2. 1. 1石炭販売の元扱店を決め実施。長崎支店 肥前地方産出炭。門司支店 筑豊地方産出炭。小樽支店 北海道産出炭。(※1)
   6. 6.27筑豊炭元扱店を若松支店に変更。(※1)
   7      三菱商事の発足に伴い、夕顔丸は同社長崎支店の所管となり、高島砿業所より焚料石炭(無料)及び補給金を受けて運航された。(※2)
   7. 4.19三菱合資会社の営業にかかる業務を三菱商事株式会社に譲渡、長崎支店、若松支店はこれに属す。(※1)
      5. 1三菱鉱業株式会社開業、三菱合資会社の鉱山部、炭坑部の所属業務の一切を継承、高島炭坑事務所はこれに属す。(※1)
  13. 4. 1三菱鉱業株式会社は三菱商事の取り扱いにかかる石炭其他生産品販売等の一切の事務を継承す。若松支店を九州売炭所、長崎支店を長崎出張所と改称。(※1)
  13. 4   従来三菱商事に委託していた石炭販売業務が、三菱鉱業の自営に切り替えられた際、夕顔丸は長崎支店の業務とともに三菱鉱業に引き継がれ、以後、高島砿業所で管理運営されることとなった。(※2)
昭和 4九州売炭所を若松支店の旧称に変更(※3)
  17三菱礦業株式會社ニ於テ長崎出張所ヲ従来独立場所トシテ營業中ノ處八月一日以降若松支店所管ニ変更ス(※4)
  19若松支店を出張所に、長崎出張所を出張員事務所と改称(※3)
  24若松支店を設置(販売機構系統図には長崎出張員事務所の記載も有)
  40.11.15福岡事務所と若松支店を統合し福岡支店とす。(※1)
  46. 2. 6火災により2階内部を焦がす。以降、2階を使わずに1階のみを倉庫や事務室に当てる。(※1)
1985年1月解体
(※1)  「(財)九州大学出版会制作『高島炭坑旧長崎事務所調査報告書』長崎市教育委員会(昭和59年3月)」より
(※2)  「三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会編集『高島炭砿史』三菱鉱業セメント株式会社(1989)」より
(※3)  「三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント株式会社(昭和51年)」より
(※4)  「三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌』(財)東京大学出版会(昭和56年復刊)」より


写真
<2011年7月撮影>
 小曽根付近の光景です。今では、場所の特定は出来ませんが、この光景のどこかに炭坑舎が建っていたと思います。

写真<2007年11月撮影>
 小曽根から大波止方向の光景です。客船が写っています。

写真<2007年11月撮影>
 小曽根から三菱長崎造船所方向の光景です。


戻る

連絡船・桟橋へ

TOP

次へ