伊能忠敬『測量日記』 七月晦日 朝は大雨。五っ後(午前7時過ぎ)に止んで曇天。福江町より乗船(藩船の五社丸)した。町奉行の松尾九助、代官の有川藤吾、代官の宮崎紋助、勘定方下役の有川寛吾、荒木亀弥、笹野籐平が送別に来る。藤原兵吉は平島迄送って来る。医師の本多叔庵(坂部の病気の治療にあたった)も同じ。宮崎栄治郎は量地術の芸古(稽古)に随身する。風と波が強いので奈留島の地内、東風泊(五島市奈留町東風泊)で船泊。 八月朔日 朝は大曇り。六っ頃(午前6時頃)に奈留島の内、東風泊を出船した。奈留島より引き船が来る。竿崎迄漕いで送る。四っ時後(午前10時過ぎ)より順風で昼九っ時頃(午後0時頃)に大村領平島(西海市崎戸町平島)へ着く。永井・門谷・保木・甚七は手分けして江ノ島へ渡ろうとする。急に雨が降り出したので中止する。それより度々雨。止宿は庄屋の林田十蔵宅、今泉の宿は百姓の源右衛門宅、永井と門谷の宿は百姓の長右衛門宅、外は百姓の近蔵宅。大村の付回り医師の本多叔庵が来る。五嶋の代官藤原兵吉は平島迄送って来て此より帰る。宮崎栄治郎は此より随身。量地芸古(測量術の勉強)の為。此の夜は曇り晴れで少し星を測る。 八月二日 終日曇天。風と雨が数度。手分けして平島を測る。我等・今泉・尾形・箱田・佐助は同島の人家前の波戸の平の印より初めて、右山の方に測る。鯨納屋跡。生月島の畳屋又左衛門が当春も捕鯨をする。相崎(相崎鼻)。野陣で小休止。鎌崎。横へ五十一間(92.73m)幟に繋げる。黒崎浦のクの印迄、沿海一里一十三町五十間五尺(5,437.88m)。山越えして横切り向かいの海辺の字南風泊浦に出て、ハの印を残す。横切り二町二十四間二尺(262.42m)。又、クの印より初めて野陣で昼休み。それより南風泊浦へ横切って残したハの印に繋げる。沿海八町三十八間三尺(942.73m)。左に三十間(54.55m)ばかりの小島は一周二町半(272.73m)ばかり。竜崎で両手が合流して測る。沿海二十四町二十一間(2,656.36m)。沿海合計二里一十町五十間二尺(9,036.97m)。外に横に三町十五間二尺(355.15m)。総測二里一十四町五間四尺。(9,392.12m) 永井・門谷・保木・佐助は彼杵郡平島の人家前の波戸の平の印より初めて左山の方に測る。測所迄四十二間(76.36m)。ヒヨウ崎(ヒュー崎)。菰田浦。足上鼻。高波石崎。中江ノ浦。氏無浦。崎ノ瀬(元ノ瀬?)。一周一町半(163.64m)ばかりの大岩。大平鼻。竜崎で両手が合流して測る。二里二町四十六間一尺(8,156.67m)。沿海二里三町二十八間一尺(8,233.03m)。但し、平島は一周四里一十四町一十八間三尺(17,270m)。両手共に七っ後(午後4時過ぎ)にすべて済み、六っ頃(午後6時頃)に宿へ帰る。此の夜より嘉平治が病気になる。 八月三日 (本隊 我等(われら。伊能忠敬自身)・今泉・尾形・箱田・佐助) 朝は徴雨で程なく止む。永井・門谷・保木・甚七は江ノ島(西海市崎戸町江ノ島)へ渡る。我等・今泉・尾形・箱田.佐助は加喜島(蛎浦島)へ向けて乗船。満汐で舟行きが悪く一時ばかり(2時間ほど)進めなかった。五嶋送りの船手のつてでようやく出帆する。舟行きの中、四っ前(午前10時前)に大雨。八っ時後(午後2時過ぎ)に江ノ島(西海市崎戸町江ノ島)へ着く。止宿は本陣が庄屋の松崎勘兵衛宅、永井と門谷は一向宗善行寺、外の者は神主の広江大和宅。 (支隊 永井・門谷・保木・甚七の手分け) 八月三日 徴雨で風。六っ時後(午前6時過ぎ)に平島を出立した。九っ時頃(午後0時頃)に江ノ島へ着く。彼杵郡大村領江ノ島を測る。鯨場字丸田浜人家前の丸の印より初めて左山の方に沿海を測る。吉田鼻。白浜。石田鼻(アポ鼻)。亀ヶ浦。七郎浜で昼休み。七の印を残す迄、三十四町四十二間(3,785.45m)。此より番岳(遠見岳)へ引き上がり、測遠の為に船の帆を残す。横に三町三間(332.73m)。七の印より初めて岳ノ小島を遠測する。小は一周一町半(163.64m)ばかり。大は一周二町余(218.18m余り)。鵜糞鼻のウの印に打ち止めて七町二間(767.27m)。沿海合計一里五町四十四間(4,552.73m)。外に横に三町三間(332.73m)。総測一里八町四十七間(4,885.45m)。暮れに江ノ島村(西海市崎戸町江ノ島)の止宿の一向宗善行寺へ着く。 八月四日 (本隊) 朝より風と雨。それより雷雨が数度。四っ時後(午前10時過ぎ)に止む。九っ時後(午後0時過ぎ)に出帆し,順風もあって七っ時(午後4時)に加喜ノ浦(西海市崎戸町蛎浦郷)に着く。本陣は庄屋の渡木庄兵衛宅、今泉は渡木源右衛門宅、外の者は百姓の禎蔵宅。此の夜は星を測る。 (支隊) 同所に逗留して測る。朝より雨天。四っ後(午前10時過ぎ)迄雷。雨が止んで出立した。同島の鵜糞鼻のウの印より初めて左山の方に沿海を測る。立瀬鼻。北河原。ゼゼヶ浦。碁石浜。西ノ小島は周囲四五十間(80m)ばかり。横島は遠測して周囲三町(327.27m)ばかり。大村地図にある。字西浜。泊崎。立岩鼻(立岩崎)。南風ヶ浦。丸田浜にエの印を残す迄、一里七町二十八間(4,741.82m)。此より夷島(蛭子島。現在は陸続き)へ渡る。瀬戸巾は一十九間(34.55m)。夷島は一周三町二十五間三尺(373.64m)。エの印より初めて、昨日の初めの丸の印に繋げて終る。五十七間(103.64m)。沿海合計一里八町二十五間(4,845.45m)。黒島は遠測して周囲三町半(381.82m)ばかり。外物三町四十四間三尺(408.18m)。総測一里一十二町九間三尺(5,253.64m)。江ノ島は一周二里一十四町九間(9,398.18m)。 八月五日 (本隊) 晴れ曇り。同所に逗留して測る。今泉・尾形・箱田.佐助は六っ後(午前6時過ぎ)に出船した。加喜島(蛎浦島)の内、字今泊の今の印より初めて右山の方に測る。浅浦崎。浅ノ浦。大津ヶ波石。坊主ヶ波石。大風泊の入江の巾を測る。横に一十一間四尺(21.21m)。小島は満切りで瀬続き。小の印迄、沿海二十一町(2,290.91m)。小島は一周三町一間四尺(330.30m)。又、小の印より初めて沿海を測る。雨見ヶ浦(天見川原)の入江奥の雨の印迄、沿海五町一十二間(567.27m)。此より山越えして横切り向かいの海辺の鯨瀬元へ出て、クの印を残す。横切り二町九間(234.55m)。又、雨の印より初めて沿海を測る。入江を回り平崎。山下。菅牟田浦。櫃ノ浦横の入江を片測三十間(54.55m)。下崎。永ノ浦。釜ノ浦。又いわく姫ノ浦。舟中で昼休み。水ノ浦を横に六十間(109.09m)入江を渡る。飯小島は一周三十間(54.55m)ばかり。小島崎。福ノ浦(福浦)。清水崎。土井ノ浦の土の印迄、沿海一里一十八町四十二間三尺(5,968.18m)。此より入江奥迄、片測一町五十七間(212.73m)。此より山越えして横切り向かいの海辺の字大阿穂へ出て、大の印を残す。横切り七町(763.64m)。又、土の印より初めて、沿海を測る。入江を回り内鍬田で打ち止める。沿海五町三十三間(605.45m)。沿海合計二里十四町二十七間三尺(9,431.82m)。入江の片測二町二十七間(267.27m)。島は三町一間四尺(330.30m)。横物十町二十間四尺(1,128.48m)。四口の総測二里三十町一十六間五尺(11,157.88m)。それより乗船して七っ後(午後4時過ぎ)に宿へ帰る。此の夜は星を測る。 (支隊) 曇り晴れ。六っ時後(午前6時過ぎ)に江ノ島を出立した。乗船して二里ばかり(約8q)、大立島へ渡る。彼杵郡大村領江ノ島属大立島を一周する。人家はない。絶壁の難所。十八町五十二間二尺(2,058.79m)。小立島は一周五町(545.45m)余りで遠測した。量地の本図は大村より出た(大村藩は領内の地図を貸し出していた)。それより船で行き三里ばかり(約12q)、崎戸島(崎戸町)へ渡る。大村領彼杵郡加喜ノ浦島(蛎浦島)枝崎戸島。人家は百二十軒。船を付けるには良い小湊である。一周一里二町一十間一尺(4,163.94m)。外に島の中の横切りが二町(218.18m)。崎戸島より同島属の御床島へ渡る。但し、十文字に縄を引く。御床島は一周一十六町三十一間三尺(1,802.73m)。外に妹島(芋島)は遠測して周囲四十間(72.73m)ばかり。島の測量の合計二里一町三十四間(8,025.45m)。外物二町(218.18m)。総測二里三町三十四間(8,243.64m)。暮に崎戸島(西海市崎戸町崎戸島)に着く。止宿は庄屋の橋口紋右衛門宅、村役の十四郎宅。 八月六日 (本隊) 晴れ曇り。同所に逗留して測る。六っ後(午前6時頃)に出立した。内鍬田浦の昨日の打ち止めより初めて沿海を測る。内鍬田の入江奥の内の印迄、沿海四町二十一間(474.55m)。此より山越えして横切り向かいの海辺の字外鍬田浦へ出て、外の印を残す。横切り二町三十九間(289.09m)。又、内の印より初めて沿海を測る。上横浦の入江を片測二町一十二間(240m)。下横浦の入江の巾を取る。横に二十一間(38.18m)。黒崎。奥ノ浦。加嘉ノ浦の人家下の測所迄、沿海二十八町三十間(3,109.09m)。阿古木。牟田島(無田島)への渡り口の阿の印迄、沿海二町九間(234.55m)。瀬戸巾は一町(109.09m)。牟田島(無田島。現在は埋め立てで陸続き)は一周九町八間(996.36m)で家は五軒。鯨納屋場がある。壱州の土肥甚平治といい、土肥善治郎の弟である。当春は十一本捕獲したそうである。志自岐社(浅間神社)がある。又、阿の印より初めて沿海を測る。小田島。鶴崎。平原崎。外鍬田浦へ横切って残した外の印に繋げる。両手が合流して測る。加喜ノ島(蛎浦島)の一周は済んだことになる。沿海三十町一十七間一尺(3,303.94m)。島は九町八間(996.36m)。横物四町(436.36m)。沿海合計一里二十九町一十七間一尺(7,122.12m)。入江の片測二町一十二間(240m)。総測二里八町三十七間一尺(8,794.85m)。加喜島(蛎浦島)を一周した。それより乗船して九っ半時後(午後1時過ぎ)に宿へ帰る。 (支隊) 晴れ曇り。崎戸島に逗留して測る。六っ後(午前6時過ぎ)に出立した。彼杵郡加喜ノ浦島(蛎浦島)字今泊鼻で本手が初めた今の印より初めて、左山の方に沿海を測る。瀬戸口迄、一町十二間(130.91m)。此より崎戸島の昨五日の初めの曲の印(五日には書いてない)へ瀬戸巾を取る。一町五間(118.18m)。内瀬鼻。山伏鼻。鯨瀬元。本手が土井浦より横切って残したクの印に繋げる。二十町三十三間(2,241.82m)。羽衣浦。中飯(昼食)。大アボ(阿房)浦。本手が土井浦より横切って残した大の印に繋げる。二十八町三間(3,060m)。横に一十二間二尺(22.42m)。字中戸。大子鼻。剣崎。剣浦。字外鍬田浜。本手が横切って残した外の印に繋げて、両手が合流して測る。二十七町五十五間一尺(3,045.76m)。剣浦の入江の片測一町六間(120m)。沿海合計二里五町四十三間一尺(8,478.48m)。外物二町二十三間二尺(260.61m)。総測二里八町六間三尺(8,739.09m)。 八月七日 (本隊) 朝曇り。今泉・尾形・箱田・佐助・宮崎は六っ後(午前6時過ぎ)に加喜島(蛎浦島)を出立した。六っ半前(午前7時前)に大雨なので我等は見合せ、五っ前(午前8時前)に雨が止んだので同所を出立した。乗船して面高浦泊片島を測る。一周九町一十三間一尺五寸(1,005.91m)。それより大島字立会取(立合道)と枝黒瀬本村大島の界、立の印より初めて左山の方に沿海を測る。但し、大島本村を測る。牛ノ首(牛ヶ首)。舟中で小休止。鵜瀬崎(鵜崎)。大島村人家下の大島浦。田ノ浦のロの印迄,沿海一里十町三十六間(5,083.64m)。入江の片測三町二十一間(365.45m)。又、ロの印より初めて沿海を測る。舟中で昼休み。尾崎の入江の巾、横に四十四間三尺(80.91m)。樫浦。上小羅崎で打ち止めて沿海二十九町七間(3,176.36m)。沿海合計二里三町四十三間(8,260m)。外に入江の片測三町二十一間(365.45m)。横に四十四間三尺(80.91m)。島を測り九町一十三間一尺五寸(1,005.91m)。総測二里一十七町一間四尺五寸(9,712.27m)。それより乗船して、七っ時後(午後4時過ぎ)に大島村(西海市大島町大島)に着く。止宿は今泉が森柵右衛門宅、尾形と箱田は広田祥助宅。 (支隊) 朝は曇り晴れ。六っ半時(午前7時)に大雨。それより曇り。崎戸島を出立した。彼杵郡大村領大島字立合取(立合道)浜と大島本村枝黒瀬の界の立の印より初めて右山の方に測る。後浜にウの印を残す迄、九町十五間(1,009.09m)。此より裏海のフキキリ(吹切)浦へ横切りフの印を残す。横切り二町一十二間(240m)。又、ウの印より初めて波石崎枝黒瀬の内、京泊に京の印を残す。一十七町二十七間(1,903.64m)。此より裏海の黒瀬の人家へ横切り黒の印を残す。横切り四十五間(81.82m)。京の印より初めて、宮ノ崎に宮の印を残す迄三町(327.27m)。此より中ノ島へ渡る。瀬戸巾は一町五十四間(207.27m)。中ノ島は一周一十一町三十七間三尺(1,268.18m)。瀬戸巾は一町六間(120m)。端ノ島は一周五町五十六間(647.27m)。地方の宮の印より初めて、大島枝黒瀬の止宿で昼休み。京泊より横切って残した黒の印に繋げる。三町三十一間四尺(384.85m)。黒瀬浦の入江ビシヤゴ鼻(現在の浦の谷か?)。アコケ浦。吹切浦。後浜より横切って残したフの印に繋げる。十三町四十間三尺(1,491.82m)。崎網代鼻の代の印で打ち止めて終る。七町五十四間(861.82m)。沿海合計一里一十八町四十八間一尺(5,978.49m)。島を測量して一十七町三十三間三尺(1,915.45m)。横切り二町五十七間(321.82m)。瀬戸巾三町(327.27m)。総測二里六町一十八間四尺(8,543.03m)。七っ半時(午後5時)に大島村枝黒瀬(西海市大島町黒瀬)に着く。止宿は庄屋の宮原友右衛門宅、宮原広太郎宅。 八月八日 (本隊) 朝は曇り。九っ時前(午後0時前)より雨。六っ後(午前6時過ぎ)に大島村を出立した。同島字小羅崎の昨日の打ち止めより初めて沿海を測る。古田崎。横尾瀬ノ淵。袋浦横の入江を片測一町一十五間(136.36m)。姶浦。洲鼻。引掛崎。舟中で小休止。間瀬のマの印迄,沿海一里三十二町三十九間二尺(7,489.70m)。雲鶴波石で左右が合流して測る。沿海三町二十一間(365.45m)。沿海合計二里二尺(7,855.15m)。外に入江の片測一町一十五間(136.36m)。総測二里一町一十五間二尺(7,991.52m)。舟中で昼休み。九っ半時頃(午後1時頃)に面高村(西海市西海町面高郷)に着く。止宿は本陣が庄屋の大串喜右衛門宅、外の者は大串長蔵宅、川口伯左衛門宅。此の日、東嶋平橘、深堀庄屋総代の九八が来る。此の夜は大雲り。 (支隊) 曇天。黒瀬に逗留して測る。彼杵郡大村領大島の内、崎網代鼻の代の印より初めて右山の方に沿海を測る。フンドウ浦。裸瀬小磯。馬刀ノ浦。内ノ浦。クスヂ島(楠地島)は周囲三十間(54.55m)ばかり。馬込鼻(現在,この付近の海は埋め立てられて大島造船所になっている)。馬込浦(馬込港)。葛崎。同所の測遠の幟に繋げて三十六間(65.45m)。角石鼻に角の印を残す迄一里五町三間(4,478.18m)。此より角石島へ渡る。瀬戸巾は三十間(54.55m)。角石島は一周二町五十二間三尺(313.64m)。角の印より初めて岩の印を残す迄三十九間(70.91m)。此より満切りの岩島へ渡る。十文字に引き岩島は一周二町二十七間三尺(268.18m)。此の辺で島々を遠測する(現在は埋め立てられて無い)。八振島は一周一町半(163.64m)ばかり。野島は一周一町(109.09m)ばかり。蛸島は一周一町半(163.64m)ばかり。三っ子島は周囲三、四十間(約60m)で三双。目張波石に目の印を残す迄七町(763.64m)。此より苺島へ渡る。瀬戸巾は五十一間(92.73m)。苺島は一周四町九間(452.73m)。目の印より初めて,目張波石で両手が合流して測る。五十七間(103.64m)。大島の一周が終る。大雨なので両手共に止宿へ引き取る。沿海合計一里一十三町三十九間(5,416.36m)。島の合計九町二十九間(1,034.55m)。瀬戸巾、其の外一町五十七間(212.73m)。総測一里二十五町五間(6,663.64m)。九っ時後(午後0時過ぎ)に宿へ帰る。 八月九日 (本隊) 晴天。面高村に逗留して測る。六っ時後(午前6時過ぎ)に出船した。同村の内、字水尻。申十二月二十五日に残して置いた御用杭より初めて左山の方に沿海を測る。油出浦。後浜のウの印迄,沿海二十五町二十七間(2,776.36m)。此より面高村の人家の間を横切り、向かいの海辺の字中村へ出て中の印を残す。横切り三十九間(70.91m)。又、ウの印より初めて沿海を回る。番屋崎。左に三十間(54.55m)ばかり上に遠見番所がある。曲崎。難所崎。字中村の横切りの中の印迄、鼻回り、即ち沿海二十五町二十六間一尺(2,774.85m)。測所迄、沿海三十間(54.55m)。止宿で小休止。野崎浦。呼崎。左に弁天社がある。水ノ浦。天窪村(天久保郷)天崎。舟中で昼休み。宮ノ浦。黒口崎(松山崎)で沿海を打ち止めて一里八町一十一間四尺五寸(4,821.36m)。沿海合計二里二十三町三十四間五尺五寸(10,427.12m)。外に横切り三十九間(70.91m)。総測二里二十四町一十三間五尺五寸(10,498.03m)。それより乗船して八っ時後(午後2時過ぎ)に宿へ帰る。 (支隊) 晴天。六っ後(午前6時過ぎ)に大島の内、黒瀬を出立した。大村領彼杵郡大島枝大子島(大小島。現在,陸続きになっている)を測る。大島の地方の間瀬鼻に昨日残したマの印より渡る。瀬戸巾は三十六間(65.45m)。大子島は一周十六町二十二間(1,785.45m)。人家は五軒。又、大島枝黒瀬持ち寺島を測る。人家はない。字稲守鼻より右山の方に測る。中瀬鼻。ビシヤゴ鼻。横島は周囲二町半(272.73m)ばかり。蓮茉島(現在,寺島大橋が架けられている)は一周三十間(54.55m)ばかり。猪ノ渡鼻。屋敷鼻。赤崎。鳥帽子鼻。昼休み。稲守鼻に繋げて終る。寺島は一周一里二十一町四間三尺(6,226.36m)。外にガラ島を遠測して一周一町(109.09m)ばかり。それより乗船して、一里ばかり(約4q)で地方(ぢかた)へ移る。地方の彼杵郡大村領多井良村枝七っ釜の内,名串崎(南串崎?)の名の印より初めて沿海を逆に測る。此より地方の本沿海の字鳥越に鳥の印を残す迄十一町三十九間(1,270.91m)。此より裏海へ横切りコの印を残す。三十九間(70.91m)。鳥の印より初めて沿海を測る。七っ釜浦の入江奥のノドノ洲瀬戸に釜の印を残して打ち止める。沿海十六町十八間(1,778.18m)。沿海合計二十七町五十七間(3,049.09m)。島の測量の合計二里一町二十六間三尺(8,011.82m)。外物三十九間(70.91m)。総測二里三十町三十八間三尺(11,197.27m)。暮れ方に七っ釜浦(西海市西海町七釜)に着く。止宿は庄屋の井手友右衛門宅、山方目付の岩永丹内宅。 八月十日 (本隊) 朝は曇り。六っ時後(午前6時過ぎ)に面高村を出立した。六っ時半後(午前7時過ぎ)より小雨。九っ半時(午後1時過ぎ)に止んで曇り。天窪村字黒口崎の昨日の打ち止めより初めて沿海を測る。岩水。鯨ノ浦。雪ノ浦。黒口浦。小川は巾三間(5.45m)ばかり。左に観音堂。字塩屋。大多和村(太田和郷)の小川尻は巾三間(5.45m)ばかり。枝池崎。左に二町(218.18m)ばかり上に八王子権現社(太田和神社?)。中浦村の小川尻は巾二間(3.64m)ばかり。舟中で小休止。呼子崎(呼子ノ鼻)。魚見崎。下手崎。南風崎。江川尻は巾三間ばかり(5.45mほど)。中浦村(中浦南郷)の止宿下。舟中で昼休み。八大竜王と正観音の合社(宗像神社?)。土塀や石垣がよくできているようにみえる。小浜崎を順に逆に合流して測る。沿海総測三里四町五間五尺(12,228.79m)。八っ時前(午後2時前)に中ノ浦村(西海市西海町中浦南郷)に着く。止宿は本陣が川野弥右衛門宅、別宿が庄屋の大串直治宅。午後に大村より土屋右衛門之允が大村御老侯(大村純鎮)より暦談(暦理測量の講話を九月十九日彼杵宿の浜で行う。大村純鎮も受講)の使いに来る。外に市瀬市右衛門(『忠敬先生日記によると一瀬悦右衛門と記されている)、橋口郁三郎(後の神近信温。江戸に出て勉学に励むことになる)、老君よりの御差図で入門する。大村侯(大村純昌)より御使者の渋江永記(渋江直記)が来る。時侯の見舞いとして御国の産物を一統へ下しおかれる。品は別記。此の夜は大曇り。 (支隊) 曇り又小雨。午後は晴れ曇り。七っ釜に逗留して測る。大村領彼杵郡多井良(西海町多以良)村枝七っ釜浦の内,名串浦の名の印より初めて左山の方に沿海を測る。鳥越より昨日横切って残したコの印に繋げる。九町三十四間三尺(1,044.55m)。字清水鼻で沿海を打ち止めて柳の印を残す迄十二町三十六間(1,374.55m)。沿海合計二十二町十間三尺(2,419.09m)。此より山合いを横切り七っ釜浦へ出て,昨日残した釜の印に繋げる。横切り五町二十五間二尺(591.52m)。又、七っ釜浦奥に昨日打ち止める前の横切りに繋げる。釜の印より初めて右山の方に逆に測る。多井良村枝七っ釜浦。四釜崎。樫ノ浦。七っ釜の内,字鳥崎浜で昼休み。殿崎。中浦村字伊佐浦(伊佐ノ浦)ビシャコ鼻。石口浦。中浦村の人家下の小浜鼻で順に逆に両手が合流して測る。沿海一里二十町三十間二尺(6,164.24m)。沿海二里六町四十間五尺(8,583.33m)。横切り五町二十五間二尺(591.52m)。総測二里一十二町六間一尺(9,174.85m)。八っ時(午後2時)に宿へ帰る。 八月十一日 (本隊) 朝は大曇り。五っ時後(午前8時過ぎ)に大雨が降り、午後に止む。八っ前(午後2時前)より晴れ曇り。六っ時後(午前6時過ぎ)に中ノ浦村を出立した。多井良村字清水鼻に昨日別手が残した柳の印より初めて沿海を順に測る。左に塩浜が二町半(272.73m)ばかり。字柳ノ浦。瀬続きの小島がある。満切りの真中へ小の印を残す。沿海六町二十四間(698.18m)。小島は一周四町五十八間三尺(542.73m)。又、小の印より初めて沿海を測る。高穂崎(高帆崎)に至る。急な雨で打ち止め。沿海一十町四十三間(1,169.09m)。沿海合計一十七町七間(1,867.27m)。外に島を測る。総測二十二町五間三尺(2,410m)。それより乗船して九っ時頃(午後0時頃)に松島に着く。止宿は同村の西泊前(西海市大瀬戸町松島西泊)の深沢与五郎宅。隠宅の大きな家で間数(部屋数)が多く立派である。当時は中橋才兵衛という。松崎村庄屋の中村半平が(挨拶に)出る。此の日、中尾節五郎(大村藩士。後の中尾半兵衛)が来て入門する。 (支隊) 大曇り。六っ後(午前6時過ぎ)に七っ釜浦を出立した。四っ時前(午前10時前)より大雨。彼杵郡大村領多井良村(多以良外郷)の内、銭亀崎の先手の初めの井の印より初めて左山の方に沿海を測る。三年ヶ浦は深い入江。女島は一周二町(218.18m)ばかり。鴨崎の測遠の幟の良の印に打ち止める。沿海一十九町三十八間三尺(2,142.73m)。急に雨になり見合わせる。焼島へ渡る。瀬戸村の内、焼島は一周一十町四十三間五尺(1,170.61m)。焼島より福島の地方の小瀬戸鼻へ渡ることにして、小の印を残して置く(現在,焼島と福島は埋め立てられて陸続きになっている)。瀬戸巾は四十二間(76.36m)。総測三十一町四間(3,389.09m)。四っ時半後(午前11時過ぎ)に瀬戸村(西海市大瀬戸町瀬戸)へ着く。止宿は浦役人の隈新宅。一軒で済む。 |