伊能忠敬『測量日記』
九月三日
晴天。朝五っ時前(午前7時前)に長崎の町を出立した。
乙名の横瀬半三郎へ江戸行きの書状(九月二日付の長女妙薫宛。六月末にオランダ船が入港して長崎も賑わっているという内容が書かれているが、この時の商館長のヘンドリック・ドーフは船がイギリスの船であることを奉行所には届けていない。従って忠敬はもちろん、誰もがオランダ船だと思っていた。当時のオランダはナポレオンによりフランスに併合されていたのである。もちろん世界中でオランダの国旗が掲げられていたのは長崎の出島だけであった。
一行は長崎のオランダ船を見るのを楽しみにしていた。前年はオランダ船は来航しておらず、その為に長崎市の測量を翌年に変更している。福江島でオランダ船来航を知り、皆大喜びしたと手紙にある。一番楽しみにしていたのは測量隊副隊長格の坂部貞兵衛であったが、残念なことに福江で病死した。
佐原の娘から毛氈の買い物を頼まれていたが、九月二十一日付彼杵からの手紙には買えなかったことも書かれている)、並びに時津より小倉迄の先触れ(今から行く先々へ前もって、用意すべき物・人・宿・食事等を書いて知らせておく書状)を渡す。但し、侍の嘉平治(加藤嘉平治・忠敬の供侍。江戸から同行している)は足の痛みのため再び長崎へ帰着するまで残して置く。三之助(笠原三之助・故坂部貞兵衛の供侍)・清助(故坂部貞兵衛の従者)の両人は江戸よりの御下知(内容は不明)も知らない。又、人数が多いので残す。乗船する。
(支隊)
手分けの永井・今泉・箱田・甚七は彼杵郡佐嘉領小嘉倉村(小ヶ倉町)持ち神ノ島を測る。神印より初めて、右山の方に測る。地のドックウ島(獨空島)の元にト印を残す迄、沿海一町四十五間(190.91m)。地のドックウ島は一周一町三十四間五尺(172.42m)。但し島といっても地続きの鼻である。
右の島より沖のドックウ島へ引き渡る。瀬戸巾は四十二間二尺(76.97m)。沖のドックウ島は一周一町(109.09m)ばかり(現在聖母マリア像が建てられている。横からみると、確かにドンク、つまりカエルに似ている)。
トの印より初めて、又、神ノ島を測る。メクラ落浜。崎雲浦。崎雲鼻。飛渡崎。シブコノ鼻。金揚。神ノ島の人家下の神印に繋げて終る。二十七町四十六間二尺(3,029.70m)。神ノ島は一周二十九町三十一間二尺(3,220.61m)。野陣で昼休み。
神ノ島属松島を測る。松島は一周四町 一十四間四尺(463.03m)。前と同じく中ノ島は一周五町三十三間一尺(605.76m)。前と同じく四郎島(四郎ヶ島。現在は神ノ島と防波堤で結ばれている。)は一周四町二十四間二尺(480.61m)。四郎島より小四郎島(現在、四郎ヶ島と地続きになっている)へ渡ることにする。瀬戸巾は二十七間(49.09m)。小四郎島は一周一町(109m)ばかりで遠測した。島の合計一里九町一十八間二尺(4,942.42m)。外に瀬戸巾は一町九間一尺(125.76m)。惣測一里一十町二十七間四尺(5,068.94m)。
(本隊)
我等(ワレ、忠敬)・門谷・尾形・保木・佐助は佐嘉領小嘉倉村(小ヶ倉町)字前原浜に八月二十八日に残して置いた前印より初めて、左山の方に沿海を測る。枝中久保。字塩屋分。小嘉倉本村(小ヶ倉町)人家下に山印を残す迄、四町四十八間(523.64m)。
これより山ノ神ノ島(現在は埋め立てで陸続き)へ渡る。瀬戸巾は一十八間(32.73m)。山ノ神ノ島は一周二町二十五間三尺(264.55m)。
地方の山印より初める。枝柳ノ浦(現在、ここから先は埠頭ができている)の人家下にヤ印を残す迄、二町三十九間(289.09m)。
これより向かいの海へ横切り、ナ印を残す。横に四十五間(81.82m)。
ヤ印より初めて、千本松鼻(柳埠頭の一部)を回って横切って残したナ印に繋げる。九町三十六間一尺(1,047.58m)。
土井ノ首村。鹿ノ尾川尻(鹿尾川)は巾三十間(54.55m)。カ印を残す迄、九町二間四尺(986.67m)。
これより川尻を片測五町六間(556.36m)。カ印より初めて、土井ノ首本村。百姓の清蔵宅で昼休み。
字網代。人家下の浜にア印を残す迄、八町一間(874.55m)。
これより裏海へ横切り黒口浦へ出て、黒印を残す。横切り二町五十七間(321.82m)。
又、ア印より初めて、立石鼻。押通し鼻(現在は、これから深堀にかけて、埋め立てにより陸続き)。クビレに谷印を残す迄、六町三十三間一尺(714.85m)。
これより向かいの海へ横切り、押印を残す。横切り二十一間(38.18m)。
谷印より初めて、押通し鼻。鬼塚鼻は周囲三十間(54.55m)ばかりの大岩。横切って残した押印に繋げて、二町四十二間(294.55m)。字崎網代浦の代印に打ち止めて終る。六町一十八間(687.27m)。
五郎江島(現在は埋め立てられて無い)は遠測して四十間(73m)ばかり。
沿海一里一十三町四十間(5,418.18m)。横の瀬戸は九町二十七間(1,030.911m)。島は二町二十五間三尺(264.55m)。総測一里二十五町三十二間三尺(6,713.64m)。
深堀村(長崎市深堀町)へ八っ半頃(午後3時頃)に着く。止宿は佐嘉領深堀村。本陣が武右衛門宅。下役中は権八宅、内弟子は熊治郎宅。この夜は星を測る。
佐嘉侯より御使者として、渋谷順四郎兼勤、郡代峯近左衛門が(挨拶に)出る。(深堀は佐嘉藩の領地で、当主は茂辰)
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背景の地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものです。
※国土地理院承認番号 平14総複、第253号 平成14年10月9日 |