○坑 内(二子島(高島)との坑内連絡)

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〔 端島と二子島(高島)との坑内連絡 〕

 <日下部義太郎、『相知、高島の二十年』、石炭時報、第三巻第十一号、昭和三年十一月、三四頁>には、「端島の坑内と二子島の坑内を連絡して絶海の孤島たる端島を救ふ計画が矢はり坑内火災の為め中止し、其後両坑を連絡する利害問題が八釜しくなり、萬一の際は中間に之を絶縁する門扉なり「ダム」なりを造ればよいのが岩石が軟かで千尺以上の水壓に堪へないと云ふことで沙汰止みとなつたことである (・・途中略・・) この端島と二子島の坑内連絡は一つは二子島の発電所から端島への送電線を設ける為めにも計画したのであつた」との旨の記載があります。

 日下部義太郎氏ですが、明治三十一年東大採鑛治金科を出ると直ぐ、三菱に入社して、最初高島炭坑に赴任し実地に採炭法の體験を積んで、明治三十三年に相知炭坑に転じ、相知炭坑時代の十三年間は長壁式採炭法の実施に没頭され、大正二年に高島炭坑に転じ、その後、大正七年の三菱鑛業株式會社創立時に本社の採炭課長となられた方です。高島在勤中には、防波石垣を鐵筋「コンクリート」に改め、二子島と高島本島の間の連絡の大工事を起こされ、また、端島では鐵筋「コンクリート」にて坑夫住宅(30号棟・日給)を建てられたり、お寺(端島布教場)や幼稚園を始められた方です。


 同様の記載として、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、269頁>には「大正5年には,坑内で端島と二子を連絡する坑道掘進が開始された。これには連絡坑道に海底ケーブルの予備ケーブルを敷設する計画も含まれ,完成すれば得る所も多いと思われたが,賛否両論があり,断層突破に難渋しているうちに休止となり,その後中止されてしまった。」の記載がありますが、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 30』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、5015頁」の「社誌第二十六巻 大正八年 一月十四日 柴田畦作ニ顧問嘱託」>には「三菱鑛業株式會社高島炭坑ニ於テ高島、端島、二子三島海底連絡工事起工中ノ處此種工事ハ我国ニ於ケル最初ノ試ニシテ技術上研究ヲ要スル點多多出来スベキニ付東京帝国大学教授工学博士柴田畦作氏ニ顧問ヲ嘱託シ報酬トシテ年額壹千五百圓ヲ贈与ノコトトス」の記載がありますので、少なくとも大正8年までは研究が進められていたようです。
 なお、坑道掘進の予算については全てを把握できてはいませんが、<三菱社誌刊行会、『三菱社誌』 二十五、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二八五八・二八五九頁>にある「社誌第二十三巻 大正五年」の「高島炭坑起業費承認」には「名称:端、二兩坑連絡坑道開鑿費 金額八○、八○○円・○○」の項目があります。


 ちなみに、昭和における情報としては、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、392頁>に「高島炭砿の歴史の中で,たびたび登場する高島と端島とを結ぶ坑内連絡坑道の構想に触れると,戦後の計画は端島第四立坑底と二子斜坑底(-359m)とを1,700m開削して両坑を連絡することによって,人員輸送,石炭運搬等抜本的合理化を図る目的で検討されたが,二子・端島両坑の砿命の相違もあり,海底採掘の原則である区画採炭に反すること等で実施に至らなかった。」との記載があり、島の先輩からも最後まで実施されなかったとのお話しを伺っています。


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