三ツ瀬区域の採炭方法等については、<加地英夫著、『私の軍艦島記
端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、211頁>に昭和40年のこととして「9月13日から盤砥5尺層上段払で全面ピック採炭が開始され、9月20日から端島としてははじめての機械化ドラムカッターによる採炭が稼働しました。」の記載があり、<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント株式会社、1989、440頁>では「炭層傾斜が比較的穏やかである(10~45°)」とし「
油圧鉄柱・カッペ(長さ1.2m)・ドラムカッター(固定式スパイラルドラム;切取幅1.2m) による端島砿としては初の機械化採炭を実施した。ただし,フィールド右翼の急傾斜部分(35~45°)では斜面払として,発破・ピック採炭を行なった。」の記載(三ツ瀬区域の炭層傾斜等については
こちら もご覧ください。)があり、採炭箇所によっては端島砿初の機械化採炭が実施となります。
機械化の効果でしょうか、
<山本ほか、「高島炭田三ツ瀬および端島沖海域の探査」、鉱山地質、第17巻第84号別刷、1967年、36頁>には「三ツ瀬区域の採掘は40年10月,零片の磐砥五尺層から開始し,
ヘリカルドラムカッター を使用,無充塡総ばらしの2段スライシング払いで,41年12月末までの出炭累計は52万t,同月の出炭は35,000t,能率は56tである.」の記載があります。あくまでも単純計算ではありますが、40年10月~41年12月末(15ケ月)の出炭累計52万tを1年(12ケ月)単位に換算しますと約416,000tで、月産35,000tが仮に12ケ月続けて出炭できた場合は420,000tとなって、端島砿における年度(年間)の最高出炭量である昭和16年度の411,100tを超える数値となります。また、
<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、446頁>には「昭和47年3月には切羽が好調で,月産3万2,837t,能率64.5t/人・月と開坑以来の最高を達成した。」との記載があり、開坑以来の最高の内容について確認しましたところ、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、488・489頁>の「2.出炭・人員・能率-(2)」において「能率(t/人月)」の項目が昭和47年頃に端島砿最高の状態となっていて、更には三ツ瀬区域採掘時の石炭は
熱量八千カロリー を超えたこともあり、三ツ瀬区域は量・能率・質ともに最高の区域だったようです。
ちなみに、端島で作製された記念品の一つに、作製時期や目的を知り得ていない飾り皿がありますが、飾り皿には「三万屯出炭記念高島砿業所端島砿」とあり、私としては三瀬区域における出炭量記念の品ではないかと思っていますがいかがでしょうか?。ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです。