3月の撮影です。崩壊した護岸も見受けられ、島の崩壊を危惧しました。 |
周遊船乗船前、野母崎から端島を望みます。
歴史の証人・三ツ瀬
島に近づくにつれ、興奮が高まります。
いよいよ、端島が目の前に。木造の建物だった、5号棟及び6号棟の姿はもうありませんでした。
写真右側には、三代目ドルフィン桟橋が見えます。また、写真左側の青色の矢印の先は、山道の下にあったくぼみ部分です。
島の先輩によれば、「戦後、山道の下のくぼみは行き止となっており、穴は開いていなかったが、昔、先輩に聞いた話では、くぼみの先に穴が開いており、島の反対側にある生協裏の穴と繋がっていた。」とのことでした。また、別の先輩からは、「昔、くぼみの奥の穴は、最初の頃の坑道と聞いたことがある。」とのお話しも聞きました。
なお、お二人とも聞いた話であり、聞いてから相当の年月が経過しておりますので、あくまでも参考情報としてお読み願います。また、私の確認方法が悪く、先輩方は、別の横穴の事を言われたのかもわかりません。前出の方とは別の先輩からですが、昔は、横穴が数多くあった旨を聞いたことがありますし、実際、この場所から学校寄りに行った部分にも横穴が存在しております。
ドルフィン桟橋の直ぐ南側部分の光景です。写真右端には、坑木を荷揚げしていたクレーンの土台が見えています。
写真右端の赤い色の壁の建物は、旧第三立坑巻座上屋です。また、その左下の海面付近の四角い穴は、海底水道の取込口でもあった場所かと思います。
なお、第三立坑巻座上屋は、第三立坑の落成が明治であることを考えると、明治に建築されていた可能性があるかと思います。
島南端の光景です。この付近の護岸上部の形は閉山の頃の形と違っているようですので、閉山後に壊れたため作り直された護岸でしょうか?。
正面建物は、南部に残る唯一の建物で「工作工場(仕上工場)」です。
31号棟上部に貯水槽が見えます。
少し進み、右手に31号棟を見ます。正面やや左の「のっぺらぼう」の建物は公民館です。
正面は日給社宅(16号棟)で、その上に三角屋根は端島神社のものです。
59・60号棟付近、神社が大きく見えます。
啓明寮(66号棟)の沖合部分、神社の形がはっきりわかります。
隔離病棟付近護岸の崩壊状況です。その後、補修が行われました。
右が65号棟、左が小中学校です。写真中央上部の両建物の間に連絡通路が見えますが、私が小中学校に通っていた頃(昭和40年代)には日常的な通路ではなく、非常時の避難通路として設けられていたようです。ちなみに、護岸のすぐ上の右側部分には「ちどり荘」が見えています。
ちどり荘の右手後ろは病院です。
小中学校です。
昔、学校海岸の高島方向には、ボタによるボタ浜があり、テトラポットが大量に設置されていましたが、今では、僅かしか残っていません。
写真左上は、何とお風呂・電話が付いていた3号棟です。エリートの方が住むアパートでした。