○その他の火災

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 昭和32年4月1日に発生した端島小中学校・病院火災以外の火災について、分かっている範囲で記載させていただきます。

 大正11年の記録として、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 31』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、5806頁」の「社誌第二十九巻 大正十一年 二月二十八日 高島支部端島倶楽部建物焼失」>には「午前五時過ギ高島炭坑端島坑役員社宅ヨリ発火、折柄北西ノ風吹キ荒ミ消火意ノ如クナラズ、壹棟(四戸)ヲ焼キ隣接セル倶楽部ニ延焼、次デ役員社宅貳戸全焼、壹戸半焼、午前九時頃鎮火ス、同島ハ家屋密集シ通路極メテ不便ニシテ為ニ倶楽部備品、玉臺貳臺外多数ヲ焼失シ、損害金額壹千百八拾参圓九拾銭ニ達セリ、同倶楽部建物ハ木造瓦葺二階建、建坪四拾四坪貳合五勺、九千圓ノ保険附ナリ」の記載があります。
 閉山間際の職員クラブ周辺の光景から想像すると、役員社宅4棟と倶楽部の火災は大火災だったのではないかと思います。


写真<写真は島の先輩より>
 昭和10年秋に端島神社や寮(閉山時に56号棟があった場所で寮の前は先々代校舎)が焼失した時の写真です。
 写真左上の最も高い部分ですが、鳥居などを残してお社は焼失しています。また、写真右端に見えている五十段の上の部分にあった寮が焼失しています。
 なお、火災以外の情報ですが、写真下段には石積上(後日、温室や65号棟4階への連絡橋が設けられる部分)に建物が見えていますが「”はしま”閉山記念特集号」によりますと当時の火薬庫とのことです。また、五十段を上り詰めた地点の少し上には柵や三角の標識らしきものが見えていて、広場だったような場所も見えていますが、その部分の拡大が下段写真となります。


写真<写真は島の先輩より>
 上段写真からの部分拡大です。閉山間際の頃にはこのような柵や広場はありませんでしたが、先々代校舎の学校の一部だったのでしょうか?。
 また、ネット検索しましたところ、三角の標識らしきものは、海底ケーブル等が近くにあるので通行する船舶に注意を促すための標識のようでした。標識の下の部分には変電所があり、昭和6年の埋立部分が出来る前迄は、この付近の下ぐらいから高島からの海底送電ケーブルが島に上がっていたために設置された標識ではないかと思っています。


写真<写真は島の先輩より>
 昭和10年秋の端島神社等焼失時の写真で、閉山時に啓明寮があった付近からの撮影と思われます。写真を見ますと宮ノ上(閉山時の56号棟部分)の木造建物は完全に焼失しているようですが、宮ノ下(閉山時の57号棟部分)の建物は焼失から免れているようです。


写真<写真は島の先輩より>
 上段写真の左側部分の拡大ですが、寮(寮になる前は先々代校舎)の基礎の様子がよく分かります。また、その上の広場ですが、平らな部分がかなり長くあったことが分かります。


写真<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 神社が再建されていますが、閉山時に56号棟(S14)があった部分は焼失時とあまり変わらない光景かと思います。ちなみに、前出の「柵や三角の標識」も残っています。


《清水建設飯場の火災、左の建物は、端島小中学校体育館(昭和45年)》
  <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>

 昭和45年6月19日の出来事です。私の勘違いかもしれませんが、火災の時、体育館の窓ガラスが割れる音が響いたのを覚えています。


《昭和48年2月6日、24号棟社宅より出火、強い北風に煽られ、31号社宅に延焼》
  <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>

《昭和48年2月6日、24号棟社宅より出火、強い北風に煽られ、31号社宅に延焼》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 燃え上っている建物の先にうっすらと見えているビルが31号棟になります。


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