○学校各種履歴の1

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 沿革概要 〕

  • 明治26.10.30 開校式、私立尋常小学校として発足
    <『昭和40年度学校要覧』、端島小中学校>より

  • 一八九三年(明治二六) 11. 3 三菱,端島小学校開校式を挙行.
    <筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、166頁>より

  • 明治二十六年十二月私立尋常小学校設立、同三十三年一月高等科併置、公立代用端島尋常高等小学校認定ヲ受ク、大正十年六月一日組織変更シテ公立端島尋常高等小学校トナス
    <『西彼杵郡現勢一班』西彼杵郡役所(大正15年)』>の「高浜村現勢概要」(大正十五年四月一日現在)より

  • 小学校 創立年月日:明治26年11月13日、所在地:高浜村端島名1,409、電話:端島2
    中学校 創立年月日:昭和22年4月1日、所在地:高浜村端島名1,409、電話:端島2
    <『長崎県学校一覧 昭和29年度』、長崎県教育委員会総務調査課、昭和29年8月>より

  • 明治34.11.12 新築校舎竣工(現在の宮ノ下社宅A附近)
    <『昭和40年度学校要覧』、端島小中学校>より
    現在の宮ノ下社宅A(56号棟)附近にあった校舎(以下:上の段の校舎)は先々代校舎かと思われますが、私が知り得る先々代校舎は宮ノ下社宅B(57号棟)附近(以下:下の段の校舎)にも校舎があって、二棟の校舎で先々代校舎を構成していたように思います。
     ちなみに、昔からの絵葉書等を見れば、建築年代は不明ですが、下の段の建物が先にできているように思われます。また、明治34年に何棟の校舎があったかは別として、1901(明34)年測量の「国土地理院」旧版地図には学校の記号が描かれています。

  • 端島私立小学校経費ハ毎年炭坑補助金七百圓ノ外就学児童ノ有無ニ関ラズ各戸ヨリ金五銭乃至五拾銭ノ範囲内ニ於テ戸別割トシ徴収セル寄附金及授業料等総計約壹千五百圓ヲ以テ維持支弁セシモ元来就学児童ハ総テ炭坑関係者ノ子弟ノミニシテ此等子弟ノ小学教育ハ従業者ニ対シ後顧ノ念ヲ断チ専心稼業セシメ永住ノ志ヲ養ハシムル一方途ナルヲ以テ向後従来ニ於ケル強制的徴収ニ近キ戸別割ヲ廃止シ、唯授業料ノミハ存続徴収スルコトト定メ、其他ノ経費ハ炭坑営業費ヲ以テ支弁セシム
    <三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十一』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、一一〇八頁>の「社誌第十五巻 明治四十一年 十一月二十六日 高島炭坑小学校経費支弁」より

  • 一九二一(大正一〇)  5.- 三菱高島,端島小学校を公立に移管し教育費補助を寄附に改める.
    <筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、306頁>より

  • 至誠・博愛・健康が校訓でした。
     明治26年11月3日に三菱社の私立端島小学校として発足。大正10年5月31日に高浜村立尋常高等小学校となりますが、運営費の大半は三菱社の補助によるものでした。
     昭和22年1月の法令改正で初等科 → 高浜村立端島小学校、高等科 → 高浜村立端島中学校となり、昭和30年4月1日に端島が高島町と合併したことにより、高島町立端島小学校・高島町立端島中学校となります。昭和32年4月に焼失する校舎は昭和8年頃建築工事が行われ、最終となる校舎は昭和33年1月17日に落成しています。昭和49年3月に輝かしい歴史に幕を閉じ、閉校します。なお、大正15年7月20日には端島青年訓練所と實業補習学校が設置されています。
    <『端島 軍艦島』、高島町教育委員会、2004>より
    <『高浜村郷土誌』、長崎史誌研究会>より


〔 児童数・生徒数 〕


区分尋常科高等科備       考
学級数学級数
大正1532116116065530251
  • 校地567坪、普通教室7室、裁縫室1室、理科室1室、宿直室1室
  • 教員住宅 棟数3、戸数5、坪数68坪、教員5名

<『西彼杵郡現勢一班』、西彼杵郡役所、大正15年6月、頁数123~134>の「高濱村現勢概要(大正15年4月1日現在)」より


区分学級数教員数在籍
生徒
性別学年別児童生徒数
123456
昭和29小学校1378572287285777452443237424145423947
中学校6101232111121454535443132------

<『長崎県学校一覧 昭和29年度』、長崎県教育委員会総務調査課、昭和29年8月>より


小学校  生徒数562、学級数13、教員(校長含む)15、職員1、使丁1
中学校  生徒数230、学級数6、教員(校長含む)11、職員0、使丁1

<『町村を廃し町を設置することについての申請書』、関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村、昭和三十年二月十日>より


区分小学校児童数中学校生徒数備  考
総数学級数教員数1学級
あたり
総数学級数教員数1学級あたり
昭30611----14----252----6----
  • 昭和43~47年のデータは、昭和48年4月発行の『町勢要覧』より 各年10.1現在

  • 上記以外のデータは、「『高島町政三十年の歩み(町制施行30周年記念史)』、高島町役場、昭和53年、頁数129」より 各年5.1現在>
昭31700----15----262----6----
昭32723----16----236----6----
昭33797----17----235----6----
昭34834----18----239----6----
昭35822----19----291----7----
昭36788----18----353----8----
昭37766----18----403----10----
昭38726----18----406----10----
昭39704----18----365----9----
昭40457----12----228----6----
昭41467----13----265----8----
昭42524----14----291----8----
昭4355830125717203328416711791632
昭4452127624516193326115011181533
昭4545924121814193323512910671234
昭4642021120913173224213610671235
昭473901951951216301951138271228
昭48326----11----207----7----


〔 先々代校舎 〕

図面《端島坑外実測図〔部分〕 (大正十年度 高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図)》
<九州工業大学附属図書館所蔵>
 自序には大正10年9月の記載がある実習調査報告書の別冊・実習調査報告書附図からの部分図になります。図面中央から左下にかけて 学校と記載がある建物が二棟並んでいますが、先々代校舎となる建物で、閉山の頃でいえば56・57号棟があった場所あたりになります。
 学校の周辺ですが、上の段にある学校の左側に「五十段」と思われる階段、図面右上に「端島神社」、右下に16~18号棟のみで構成される「日給」(16号棟は9階建てで17号棟は7階建て・閉山の頃の日給は16~20号棟で構成)と日給との間の階段らしき通路、神社の右側で図面の右端には旧2号棟や旧15号棟の姿が見えています。
 ちなみに、上の段にある学校は閉山の頃の56号棟よりもかなり長く、建物の右端は17号棟の神社側にまで及んでいて、 後述の島の先輩のお話しにある「上の段の建物の端は17号棟ぐらいまであり」の内容を示す図面になろうかと思います。


内容《長崎港外端島名勝 尋常高等小学校》  <所有絵葉書>
 大正後期から昭和初期にかけての撮影と思われる絵葉書です。写真中央部ですが、上の段(閉山時の56号棟があった場所)と下の段(閉山時の57号棟があった場所)に校舎がありました。ちなみに、上の段の校舎の屋根の上に見えているのが端島神社で、右端の大きな建物が日給、左端には五十段の姿も見えています。
 なお、上の段の校舎の左端ですが、以下に記載のとおり、《端島坑外実測図〔部分〕 (大正十年度 高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図)》の形から変更があっているように思います。


写真《上段絵葉書の部分拡大》
 上の段(閉山時の56号棟があった場所)の校舎で建物左側部分の拡大になります。気になった箇所を矢印で示し、その内容を記載させていただきます。
  • 石垣上には、先ず、コンクリートによる1階分の部屋(黄色の矢印の箇所)を設けて基礎とし、その上に、木造の二階建校舎(赤色の矢印の箇所)が設けられているように思いました。
  • この建物が焼失した時の写真を見ますと、コンクリートによる1階分の部屋の様子がよくお分かりいただけるかと思いますが、23号棟の住居部分の構造(上:お寺1階、下:住居1階)とよく似ているのではないかと思いました。
  • 校舎の右側部分にはコンクリートによる1階分の部屋はなく、木造の二階建校舎のみのように思えます。
  • 上の段の校舎から下の段の校舎に向かって斜めの構造物(青色の矢印の箇所)が見えていますが、もしかしたら上下校舎間の屋内移動階段でしょうか?。
  • その昔に使用されていた広場と思われる箇所の一部(黒色の矢印の箇所)がかすかに見えているようです。


写真端島神社や上の段の校舎が焼失した時(昭和10年秋)の写真から、上の段の校舎部分を抜き出した写真です。
 「コンクリートによる1階分の部屋(黄色の矢印の箇所)」や「その昔に使用されていた広場と思われる箇所(黒色の矢印の箇所)」の様子がお分かりになりやすいのではないかと思いますが、「その昔に使用されていた広場と思われる箇所」は平地でかなりの広さもあるように思えます。


 さて、下段に、先々代校舎の拡大写真を時系列に並べてみました。《長崎港外端島名勝 尋常高等小学校》の絵葉書では、上の段の校舎の左端(閉山時に65号棟があった側)は、石積ぎりぎりまで3階建(コンクリート1階+木造2階)の姿となっていますが、大正初期の頃の撮影と思われる絵葉書(写真①、②)では校舎の左端は中央部分と比べて1階分低くなっているように思われ、大正十年代の頃の撮影と思われる絵葉書(写真③)において「石積ぎりぎりまで3階建(コンクリート1階+木造2階)校舎」が登場するようです。大まかな表現ですが、写真①②に写る寄棟造の大きな建物はそのままとして、大きな建物の手前(閉山時に65号棟があった側)にあった低く小さな切妻造の建物を取り壊して、陸屋根の3階建(コンクリート1階+木造2階)を完成させたように思います。
 また、


写真写真①
 大正初期の頃の撮影と思われる絵葉書《高島炭坑(Takashima Colierry)  端島(Hashima)》からの該当部分周辺の拡大になります。
 上の段の校舎(神社のすぐ下にある寄棟造の大きな建物)の左端(赤色の四角の部分)には低い建物が存在しているようで、《端島坑外実測図〔部分〕 (大正十年度 高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図)》の校舎の左端に相当する部分かと思います。



写真写真②
 大正初期の頃の撮影と思われる絵葉書《高島炭坑(Takashima Colliery)  端島(Hashima)》からの該当部分周辺の拡大になりますが、日給が建設される前の写真になります。
 上の段の校舎(神社の右下)では、寄棟造の大きな建物の手前(閉山時に65号棟があった側)には、低く小さな切妻造の建物が横向きに建っていますが、こちらも《端島坑外実測図〔部分〕 (大正十年度 高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図)》の校舎の左端に相当する部分かと思います。



写真写真③
 大正十年代の頃の撮影と思われる絵葉書《長崎港外端島名勝 裏海岸全景》からの該当部分周辺の拡大になりますが、日給の9階建ては16号棟と17号棟のみの頃になります。
 遠く沖合からの撮影で画像が荒いですが、日給左側の上段にある校舎の左端(閉山時に65号棟があった側))には小さな建物はなくなっていて、陸屋根のような形の建物となっているように思えます。



写真写真④
 大正15年から昭和5年頃にかけての撮影と思われる絵葉書《三菱高島礦業所 端島坑西海岸》からの該当部分周辺の拡大になります。
 こちらも画像が荒く建物の形ははっきりとしませんが、建物の端(閉山時に65号棟があった側)には写真①や写真②に写る小さな建物はなく、陸屋根で3階建(コンクリート1階+木造2階)の建物となっているようです。



写真写真⑤
 昭和9~10年頃にかけての撮影と思われる絵葉書《長崎港外端島全景》からの神社や先々代校舎周辺の拡大となります。野母崎正面からではなくかなり「中の島」側に回っての撮影のようで、校舎の東面に併せて北面(65号棟側)も写っていて、校舎北面の建物下には五十段も見えています。
 あくまでも個人的感想ですが、先々代校舎北面と建物下の五十段がある擁壁は一体化していて、遠目から見ると日給の16号棟と見間違えてもおかしくないぐらいの高層建築物に見えてしまいます。(実際のところ、16号棟は先々代校舎と五十段がある擁壁に隠れて見えていません。)



写真<出典:探検コム>
 写真(昭和5年発行書籍)の説明には、左の建物は小学校で12名の教師と500名の生徒を収容とあります。
 島の先輩によれば、昭和初期には、16号棟の左側の上下の建物2棟(下の段の建物には1.2年の部屋と雨天体操場、上の段の建物にはそれ以外の部屋があった。)を学校として使用していたそうで、16号棟の手前にはテニスコートがあり、その周辺をグランドとして使用していたそうです。そして、上の段の建物の端は17号棟ぐらいまであり、17号棟の端を小遣い室に使用していた。また、神社に上がる階段があった場所に、上の段の建物の入口(校門?)があったとのことでした。
 ここの学校が、新しい校舎(昭和6年埋立部分の木造2階建て)に移転した後は、この建物は寮として使用されていたそうで、昭和10年頃にタバコの火の不始末が原因で焼失し、その時は、端島神社にも延焼したそうです。なお、火災直後と思われる写真を見ますと、上の段の建物は全焼で、下の段の建物はあまり被害はなかったように思われます。


〔 先々代校舎を望む光景今昔 〕

写真
《三菱高島礦業所 端島坑九階建鑛夫社宅及小学校ノ一部》
  <昔の絵葉書から  所蔵: 九州大学 記録資料館>

 構図的には、上段写真の下部分を少しカットして作成した絵葉書のようです。タイトルには、「小学校ノ一部」の文字があります。

写真
<2013年撮影>
  <長崎市の特別の許可を得て撮影>

 校舎やテニスコートだった場所には、高層住宅が建っています。それらの建物の間から、ほんの僅か、日給の姿が見えています。




〔 先代校舎 〕

《旧小学校建設基礎工事(昭和8年頃)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 『高浜村郷土誌』長崎史誌研究会には、昭和9年3月9日端島小学校改築の認可の記載がありました。

《端島高等小学校  長崎要塞司令部検閲済
  <所有絵葉書>
 校舎の手前には、まだ、何も設けられていないようです。

《端島高等小学校 昭和十六年一月十一日 長崎要塞司令部再検閲済
  <所有絵葉書>
 上段絵葉書と同じの写真の絵葉書かと思いますが、こちらには、検閲月日と検閲済の文字が入っています。


《木造の旧端島小学校(昭和9年3月)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 この時期の校舎の手前には花壇が存在しています。

<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 先頭の旗を持つ学生の後には、大太鼓、小太鼓、ラッパを持つ学生が続いているようです。左写真同様、こちらの写真にも蘇鉄?が植えられた校舎前の花壇の姿がうかがえます。また、生徒が出てくる玄関の左右に看板が見えますが、左は「端島尋常高等小学校」、右は「端島青年学校と読めるような気がします。

<出典:社会大観・第4号((株)世界文化社・昭和31年8月20日発行)>
 こちらも、校舎玄関周辺の光景かと思いますが、大勢の子ども達が写っています。
 なお、こちらの写真にも花壇は写っているようですが、植物は植えられていないように思います。


《昭和25年撮影 山祭り》
  <高比良勝義氏(元島民)撮影>


写真《旧小学校校庭での野球大会の遠景(昭和27年頃)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 写真右端には、プールや土俵の屋根が見えます。島の先輩から、当時の学校について、「プールの高島側は、上級生用の深い部分で、浅い部分はその手前にありました。終戦後、生徒が増えて、(校舎を)プール側に延長し、旧校舎の裏(講堂横)にも、(校舎が)増設されていたようです。増設前は、プール側に、2教室の2階建てで4教室があり、その横がプールでした。直角方向には、1階は、3教室、土間(校門から運動場に行く通路)職員室、教材室、廊下、講堂と並び,2階は、3教室、廊下、教室(職員室の上)となっていました。1学年1教室(高等科も含む)に、工作室、和裁室、洋裁室がありました。」との話をうかがったことがあります。


写真<写真は島の先輩より>
 海側から見た光景です。65号棟の学校側も9階建てとなっていますが、屋上に幼稚園の姿はありませんので、昭和26・27年頃の撮影ではないかと思います。
 また、上段写真の説明にある「(校舎を)プール側に延長」する前の撮影と思います。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 写真のタイトルには「床の板が曲がった廊下」のみで先代校舎との記載はありませんでしたが、先代校舎の廊下の写真と想像します。如何でしょうか?。

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 写真のタイトルには「破れた板.壁」のみで先代校舎との記載はありませんでしたが、先代校舎の外壁の写真と想像します。如何でしょうか?。


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